安息日

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 と。ふ、と菊の手元が陰ったと思ったら。  「喜べ……おめでとう、恵まれし者よ」  耳朶を低い声がくすぐる。  ぎっしり詰まった聖書の小さな文字を目で追うのに必死で、ヘラクレスがすぐ傍に来ているのに気付かなかったのである。  驚いて顔を上げると同時に手を取られ、何かがぽんと掌に乗せられた。  掌中の物が一口大の砂糖の塊だと判ると--この甘党の青年は、砂糖の塊を砕いたものを常にポケットにごろごろと忍ばせている--菊は仰のいて神父を窺った。  「主が貴方と共にあられます……」  茫洋たる表情のまま視線だけを彼に向け、ヘラクレスは横を通り過ぎた。  そして、一列後ろに坐っているアルフレッドの処に向かって。  「この言葉にマリアは……ひどく胸騒ぎがして……」  もはや完全に心此処にあらず、のやんちゃ坊主の頭をごく軽く叩いて、菊にしたのと同じように砂糖を渡す。  落ち着きをなくした子供、すっかり船を漕いでいる子供、或いは欠伸を噛み殺し続けてすっかり涙目の若者。  「彼の挨拶はいったいどういう意味であるかと……」  あちこちを巡り砂糖を配り歩く間も、ゆったりとした朗読が途切れる事はない。  変わり者の神父の奇行はどうやらいつもの事らしく、説教壇を離れてうろうろしていても村の住民達はちろりと一瞥するだけで、意に介した風もなかった。
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