人喰い

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  彩は椅子の上に座っていた。放心状態だった。背筋を丸め俯いている。薄ピンク色のピンダイのバックを、まるで縫いぐるみのように、ぎゅっと強く、両手で抱きかかえている。両腕を交差させて、胸元にと押し付けていた。 この部屋は狭い。殺風景だ。三方は白い壁で前方は扉。その向こうは廊下だろう。看護婦と彩、そして片桐、室内には三人しかいない。なのに窮屈に感じる。 お母さんはというと、所用があるといい、病院を飛び出してしまった。精神的に不安定な状態。ひとりにするには危険ではある。しかし誰も止めなかった。尋ねもしなかった。彩の着替えを買いに行ったのだろうから。 部屋の中にはベッドと椅子以外に何もない。机もなければ壁に掛かっているものもない。ただ目の前のベッドに真っ白いシーツが敷かれている。その表面は、凪ぐ風が駆け抜ける直前の湖面のようだ。真の静謐である。 「辛いでしょうが、我々としても精一杯の……」 「お父さん、駄目……なんですよね?」 静寂が痛い。堪えられない沈黙。しびれを切らしたかのように、最初に口を開いたのは片桐だった。しかし、直後に彩が遮る。初めて話しかける。出かかっていた言葉を生唾と共に呑み込んだ片桐は目を丸くしていた。 「島崎さんの体の中にいるのは未知のウイルス。我々人類が今だに遭遇した事のない、新型のウイルスなんです」 片桐はできるだけ暖かみのある表情をつくって言った。強い口調だった。やはり医師だ。言い慣れている。他人を絶望にと突き落とす宣告というものを。しかし言葉の端が震えているのを彩は敏感に感じ取っていた。黙って片桐の瞳を見つめている。 「幸か、不幸なのか、新型のウイルスなので……」 ここで片桐は息をつく。慎重だった。言葉を択んでいる。自分でも気付かないうちに口を僅かに開け、はあっと荒い息を吐き出していた。慌ててごくりと唾を呑み、口をつぐんだ。眉間にしわが寄る。出口の塞がれた呼気が鼻から勢いよく吹き出していた。 「日本中の医師の中でもトップクラスの名医達が、チームを組んで島崎さんの治療にあたってます」 慎重な返答に対する彩の反応は薄い。正直言って、なにがなんだか分からない。もぞもぞとしている。視線を落とし、濡れたスカートが気持ち悪いようなそぶりを見せる。そして虚ろな表情のまま目をつぶる。ひとつ深呼吸をした。
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