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旅先で偶々隣り合わせに座ったからといって、会話まではしても後で会う必要もないのに名乗り合うことは先ずない。
そしていつしか忘れ去ってしまうものである。
彼女の話はすっかり忘れていた三十年以上も昔のことを鮮やかに思い出させてくれた。
当時私は中国化学産業という会社に勤めていて、農作物に使う植物ホルモン剤を全国の農協に卸して回る営業マンだった。
二月の受験シーズンだった。
東京へ出張する新幹線で私の隣が高校生らしい女の子だったことがあった。別に下心があった訳ではないが、利発そうで愛らしい顔をみて私は思わず頬が緩んだのである。
「蝶」という題の詩は人の世の無常観を瀕死の蝶に託して作ったものだ。
当時私は音楽に凝っていて、我流で下手なピアノを弾いたり作曲を試みたりしていたので、その詩で歌曲を作ろうと思ったのである。
容貌は別として、音楽を趣味としていた点では確かに彼女の父親に似ていたのだろう。
車内での少女とのやり取りは概ね谷沢響子が話した通りだった。
その少女とは音楽の話に花が咲き東京までの時間がとても短かった。
私には息子が一人いるが、もう一人こんな娘がいたらどんなに楽しかろうとつくづく思ったものである。
あの日はよく晴れていて、幸運を占うように見事に冠雪した富士山がくっきり見えたことまで同時に思い出した。
お互いに名前まで訊くことはなかったが、全く偶然に隣り合わせになったあの時の少女が谷沢響子だったとは。そして、もし彼女の母親が柳沼淑子だったとしたら・・・
バックスクリーンにはサンクト・ペテルブルグで行われたラフマニノフピアノ国際コンクールの模様や、彼女が演奏旅行で回った世界各地の風景などが次々に映し出されたが、最後まで谷沢響子の母親の名前は出てこず、映し出された写真が柳沼淑子である確証は掴めないまま放送は終わった。
谷沢響子が廣島いずみホールでリサイタルを開いたのはその放送から三月ほど後のことだった。
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