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「あのう、お名前どう致しましょう」
ホールの中にある花屋の店員が、注文した薔薇の花束を作りながら訊ねる。
「ああ名前ね。一期一会より、とだけでいいです」
こんな名前を書いた事など一度もないに違いない。
若い女の店員は、小首をかしげ意味がわからないのか怪訝な顔をしたままぼんやりしている。
(今頃の若い娘は一期一会も知らないのか)
私は憮然としながらプレートと筆ペンを受け取ると「一期一会より」と小さく書いて渡した。店員はこっくり肯くと手際よく花束を仕上げた。
「君、これをホールの控え室へ届けてくれないか。今日ここで谷沢響子のピアノリサイタルがあるだろう」
「はい。でも自分で渡さないんですか?」
あらかじめ予定されている花束は最後のプログラムが終わった後でステージの上で手渡されるが、一般の聴衆は舞台の下から背伸びしながら差し出すことになる。
演奏者に近づいて直接花束を渡したい。握手をして彼女に触れたい。それがファンの心理というものだ。
だが白髪の老人が薔薇の花束を抱えて大勢の人前でうろうろするのも羞ずかしいし、まして今の私には直接顔を合わせるだけの勇気はなかった。
「いいんだ、照れくさいから。頼むよ」
「わかりました」
こういうことはよくあるらしい。店員は思ったより簡単に承知してくれた。
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