松下村塾

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――安政四年(1857年) 長門国、萩。 海に面したこの城下町で、畦道を走る一人の青年の姿があった。 余程急いで走ってきたのか、綺麗に結っていたであろう総髪は乱れ、着物も走る度に着崩れていく。 夕焼けに染まる空を背景に、走り続けた青年が辿り着いたのは木造瓦葺き平屋建ての小舎だった。 入り口に佇む二つの人影。それを見つけた青年は、笑みを浮かべ大きな声を上げる。 「おーい! 久坂! 栄太郎ー!!」 名を呼ばれた青年の一人は顔を上げるも、直ぐに目線を下に戻した。手に持つは読み込まれた教本。何事も無かったかのように、再び本を黙読していく青年――栄太郎に、青年は今度は怒りの声を上げた。 「おおい! 無視すんなよ!!」 急いで駆け寄り更に声を掛ければ、栄太郎は目線をそのままに深々と息を吐く。そして、青年を見て一言。 「……ああ、何だ。牛か。いたの?」 「いたわ! 先刻、目ぇ合ったじゃねぇか!! つか、何だよ。牛って!」 「君の事だよ。良い例えだと思わない?」 さり気なく放たれた栄太郎の言葉に、地団駄を踏む青年は確かに怒る牛のように見えなくもない。
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