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風を感じた。
目を開き――思わず息を呑んだ。早鐘のごとき胸の高鳴りは受け入れがたい光景を目の当たりにした驚きによるものだ。しかしそれだけではなく、むしろその光景に宿る美しさこそが、そうせしめた要因であった。
俺の姿は、草原にあった。
抜けるような青空の下では、まるで陸地の果てまで及ぶものと思わせる一面の草花が、見渡す限りに広がっている。その雄大な眺めは、動揺すら追いやり深い感動を与えるほど。
だが、ここはひどく現実味のない世界でもあった。燦々と降り注ぐ日光の暖かさや、大地を踏みしめる感触すらもあるというのに、さめた目を向ける自分がいるのだ。
そう、さながら絵画のようであるこの完成した世界は、いま俺が見ている夢で……
それは、さわさわと渡る再びの風に目を細めたときだった。
「お母さーん!」
「!」
立ち尽くす俺の脇を、なにか小柄な影が駆けていった。幼い男の子だ。釣られて振り返り、困惑のままにその小さな背中を目で追う。
……これは、既視感なのか。
俺は遠ざかる背中から目を離すことができずにいた。知らない。俺はあの子を知らないはずだ。しかし、拭いきれない奇妙な感覚。俺の心は動揺した。
穴が開くほど注視していたからだろう。男の子の右手に、茎頂に黄色い花弁を付けた植物が握られていることに気付く。同時に強まる、妙な既視感。
そう、俺は、あれをどこかで見たはずなんだ。
思い出せないとは、なんともどかしいことか。
「お母さん!」
やはり聞き覚えのある声に我に返る。
男の子の走る先に、ひとりの女性が立っていた。ともに純白の日傘とワンピースというフェミニンルック。
そして、母親と思しきその女性へと、男の子は走り寄る勢いもそのままに抱き着いた。距離のためか、靄がかかったようで顔の視認もままならないその母親は――おそらくは暖かな微笑を浮かべながら――それを受け入れる。その抱擁のさまは聖母をすら思わせた。
微笑ましいその光景は、幸せの象徴。この世界の美しさとも相まって、何人たりとも侵すことのできない聖域のように感じられる。見るものすべてに暖かな気持ちを誘うことだろう。
しかし、俺の胸は激しい痛みを訴えだし、俺は思わず胸元を力強く握り締めていた。
一向に痛みは治まらず、その場に膝をついてしまう。
「――」
そして、気付いてしまった。
あれは。
あの母子は――
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