第一話

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   ゴツッ――!  そのときの音は、いまでも脳裏に焼き付いている。  脳天に激痛が走ったことを認識したときには、すでに俺の体は椅子を蹴倒して跳び上がっていた。 「いってぇ!?」  遅れて、裏返った悲痛な叫びが口を衝いて出る。相前後し、痛みの生じる頭に手を伸ばした。脈を打つたびに感じる鈍い痛みは筆舌に尽くしがたい。体は正直なもので、たちまちのうちに溢れてきた涙をもって視界がぼやけてきた。  件の音を耳朶にしたときから、この痛みをもたらしたブツのおよその見当はついているが、それゆえ少しくらいは加減してくれてもいいのではないかと切に思う。  恨みがましい顔つきを意識し、俺は目前の人物、つまりは犯人へと顔を向けた。しかし、直前まで寝ていたことも相まってか、視界は一向に回復の兆しを見せない。それは鮮明とは程遠く、この目は薄ぼけた輪郭のみ映している。そこにだれかがいるということ以外は判然としないのが現状。――あ。  脳裏に閃くものがあった。俺はなぜ殴られたのか、その経緯を理解する。鈍痛が引いていくとともに、意識や思考のほうが明瞭となってきたためだ。……背筋が寒くなった。  冷静さを取り戻すと、周りに息を呑む気配がいくつも散在することに気付いた。みな一様に、場の空気を一変させた出来事に戸惑っているようだ。確かに、それも無理からぬことだ。当事者でさえなければ、この状況に俺もただの観衆と化していたことは想像に難くない。  ここまでの思考の時間を経て、ようやく視界がクリアなものへと回復した。何度か瞬きをし、改めて目前の人物を見据え、俺は予感が的中していたことを悟る。  まずもって、詫びを入れるべきだと思い至ったのは正解だと思う。 「……あの、加奈さん」 「なによ」にべもない返事。  愚行を咎める眼差し。俺は自分を眼光鋭く睨みつけるその双眸から目を離せないでいた。  一言で済ませると、綺麗な少女だ。  十五という年齢には不釣り合いなほどの「美」を思わせるその顔かたちは精巧をきわめているが、なによりも人の目を引きつけて止まないのが、理知的な光を秘めたその瞳だ。時として蠱惑的に、時として神秘的に。それは一切の汚れを拒絶する雪のような清澄さや崇高さを兼備し、濡れたように束を作る少し長めのまつ毛がその周囲を縁取り、強烈なアクセントをつけている。  岡崎加奈(おかざきかな)。  それが彼女の名だ。  
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