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「ねえねえ、なんの話してたの?」
「秘密です。雫ちゃんはちょっと黙ってましょうね」
「えー」
口を尖らせる雫の下顎に手を伸ばし、遠慮なしにくすぐる。弾むような声をあげて、雫は身を震わせた。……いや、離れろという意味を込めてこの行動に出たのだが、なぜまだ張り付いたままなのだ。
制服ではなく薄い運動着であるためか、その柔らかな感触がダイレクトに伝わってくるわけで。こちらがそれを指摘することにも気恥ずかしさがあるし、自ずから気付いて離れてほしいものである。
「あ、そうだ。優、私の走り、ちゃんと見てくれてた?」
「ん?」
雫の関心は別のところに移ったようで、もう俺と加奈が話していた内容について言及する気はないようだった。一安心なのだが、次に提示された疑問に、俺は首をかしげる。
走り? ああ、そういえば雫がここにいるということは、もうタイムを測り終えたことになる。ただ、俺はそのとき加奈にいろいろと問い詰められていた最中であったから、グラウンドのほうはまったく注視していなかった。
残念ながら、雫の走りなど見れているはずもない。
それを説明すると、
「えー! ちゃんと見ててねって手を振ったのにっ」
「知るかい」首を絞めるな首を。
そういう意味だったのかあれは。むしろそこは、俺の走りを褒め称えるものであるべきだろうが。
それよりもだ。さっさと離れてはくれまいか。加奈と二人で話していただけで嫌な視線を感じたのだ。そこでお前がこんな形で介入してしまったら、視線の主はおろか、不特定多数の目に対しても気を揉まなければならない。
しかし、内心とは裏腹に、俺はあのまとわりつくような視線がなくなっていることを実感していた。
それなりに時間も経つことだし、視線の主もこの場は観察することをやめたのかもしれない。いや、やはり感じた視線そのものが俺の勘違い? 考えはまとまりそうもない。
「頑張ったんだけどなあ、八秒切ってたし……あ、加奈ちゃんそれちょうだい」
ぼやいていた雫だが、加奈の手にあるペットボトルを目ざとく見つけては、それをねだる。
「え、ああ……はい」
どこか加奈の反応が鈍いように感じた。少し逡巡するような間を置き、雫にそれを手渡す。どうしたのだろう。
それにしても……なんだか、雲行きが怪しくなりそうだ。
集合の笛を遠くに聞きながら、俺は雲ひとつない青天を見上げた。
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