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「はあ」
「どうしたの?」
困難な問題を前にすると、人間という生き物は往々にして現実逃避に走るものである。
ご多分に洩れない自分に気付きため息をこぼすと、不意に横合いから声をかけられた。そいつは俺の右隣に腰を下ろし、掃除のために持ってきた軍手を丸めてはお手玉よろしく器用にポンポン宙へと飛ばしていた。
「物思いに沈んでいたわけだが」
「ふうん。ただぼけっとしてるように見えたけど」
なにおう。これでもだな、懸念事項の解決策を練るために思いを巡らして……
そこまで考えたところでばかばかしくなり、俺は右手を伸ばしてそいつの頭を鷲掴みにした。悲鳴のくせして愉快げな響きのある声を無視しながら、その頭を左右に揺らす。
手のひらを通じて伝わるのは、絹糸のように滑らかで、それでいて全体的に緩やかなウェーブがもたらす、ふわふわとした長髪の質感。地毛である栗色のそれは夕陽に映え、不思議な彩りを見せていた。
親しみ深い性格に違わず、整った顔立ちがなすのは人好きのする笑顔。素直な感情の吐露による賜物で、そこに飾り気などまるでない。ひとたび薄い唇が笑みの形を作れば、溌剌とした印象を与える白い歯が覗く。
親しい女友達である加奈とはまた違った意味で、こいつは周囲から美少女という認識を欲しいままにしていた。
幼なじみ。
居候先の次女。
俺にとって二つの肩書きを持つこの人物が、水野雫(みずのしずく)という少女だ。
あわあわ言っている雫の顔を見ていると、なんだか胸のうちがすっきりしたような気がした。その頭を軽く叩き、手を離す。当の雫はというと、ぐちぐちと不平を並べ立てつつ、乱れた髪の毛を一生懸命に整えだした。
「もー。どうして優ってばこんなことが平気でできるの? いや、そりゃ別にしちゃダメって言ってるわけじゃないんだけど、なんというか……」
「おい、そこのふたり」
段々と尻窄みになっていく雫の声に冷めた言葉をかぶせてきたのは、夕空をバックに立つ加奈だ。軍手をはめた手に申し訳程度に膨らんだゴミ袋が握られていることから、サボり組である俺たちとは違い、きちんと清掃に貢献していた模様である。
週番制であるこの掃除の割り当てには、教室や階段・廊下、トイレなど様々あるのだが、ある意味でアタリともハズレとも言えるこの外掃に白羽の矢が立ってしまったのが俺たち仲良し三人組だった。
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