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「おや、帰ってきたようだ」
そう言って男は立ち上がった。
「私も仕事をしなくてはいけないようだ」
懐に手を入れると、内ポケットを探る仕草を見せる。次に手を引き抜いた時にはその手には赤い紙切れが三枚。そして左手に持っていたステッキをクルリと器用に指先で回すと、ステッキがペンに見事に変わる。
黒光りする少し太めのペンで、ステッキと同じように銀で縁取られている。ペンのキャップを外せば、中は高級そうな万年筆。緻密な模様が施されたペン先に黒いインクが染みていた。
男はその万年筆で赤い紙に流れるようにサインしていく。
鮮やかな男の手つきに亜子は眺め入ってしまう。
サインし終わったところで、男は赤い紙切れを亜子に差し出した。差し出された赤い紙切れを見れば、サーカス公演のチケットだった。
「これを君にあげよう、アコ」
「チケットないって」
「だから今作っただろう。受け取ってはくれないのかな?」
作った?
胸ポケットからチケットを出して、サインする行為が?
亜子は釈然としないものを覚えたが、ここでまた訳の分からない問答をしても始まらない。それならば、と亜子は男に差し出されたチケット素直に受け取った。
手にした瞬間、止まっていた時間が流れ出したようにふわりと制服のスカートが浮き上がり、風が亜子の髪を撫でた。
手にした赤いチケットはキラキラと光が降り注ぐかのように光っていた。赤いチケットの見せる不思議な光景に亜子は見入ってしまう。
「欲しいね、その……」
「え?」
男の言葉を上手く聞き取れず顔を上げた亜子に、男はあやしく笑った。
「きっといい夢を見せてあげよう」
男の表情に一瞬、息を飲む。
「だ、だから夢なんて」
「一時の夢でも見る価値はあると思うがね」
キャップをした万年筆を男が何気なく上に軽く投げると、今度は元のステッキに早変わり。落ちてきたステッキを手に取った。
あまりの見事さに、目の前で見せられても手品と思えないほどだった。
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