サーカスの男

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 男は手にしたステッキを亜子に向けると、亜子の胸にトンと置いた。  「夢が一時なのは、自身が夢から覚めることを望んでいるからなのだよ、アコ。望みさえすれば夢は永遠であり続ける」  胸に向けられたステッキを片手で払いのけた亜子が言葉を口にしようとして、男に言葉を遮られる。  「ふむ。もう時間も遅い。お帰り、アコ」  男は被っていたシルクハットを取ると、逆さにして中に手を入れて探り出す。気のせいかシルクハットの深さ以上に腕が中に入っているのが見ていて怖い。また手品か何かなのだろう。  目的のものを掴んだのとほぼ同時に男は勢い良くシルクハットから腕ごと引抜いた。ぶわっと舞い上がった白い綿毛が亜子の視界を塞ぐ。何事かと目を白黒させる亜子の下に白い羽がひらひらと舞い落ちる。  「おや、失礼。羽が舞ったね」  男に視線を戻せば、白いハトが男の肩に一羽とまっていた。羽を広げて器用に毛づくろいしてハトは何度か羽をばたつかせるも、その後は静かに男の肩にとまっている。頭を傾げ、ハトは見慣れぬ亜子を伺う仕草で見てくる。  「さっきから手品凄いわよね」  「手品? 私は他の団員のように売れる芸は持ち合わせていないよ」  「そう? 十分食べて行けそうだけど」  「おかしなことを言うね」  「あなたほどじゃないと思う……」  男は亜子の言葉をさして気にする様子もなく、肩にとまったハトを自分の人差し指に移して亜子に見せた。  「迷わないように彼が道案内してくれるよ。ここは迷路のようで概観にそぐわぬほど入り組んでいるからね。彼の後を付いておゆき」  「そ、そうなの?」  「ああ。また会える日を楽しみにしているよ、アコ」  男が放つとハトが両翼を羽ばたかせて勢い良く飛び立つ。  亜子は見失わないようにハトを追うとして、亜子は足を止めた。  「あ、チケットのお礼」  振り返ったそこに男の姿はない。ほんの一瞬目を離しただけだったのに、もうそこには誰もいない。始めから人なんて誰もいなかったように人の気配がしなかった。道具だけが空間を占領して、聞こえるのは奥からする賑やかな物音だけ。  亜子は手にした赤いチケットを握り締めると羽ばたき飛ぶハトの後を追って、その場を後にする。
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