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サーカスの男
一歩足を踏み入れた時から変わる空気。閉鎖的な空間のはずなのに、夏と言うことを忘れさせてくれるほど中はひんやりしている。クーラーの涼しさとは違う奇妙な感覚。空気の流動は感じられず、気持ち淀んでいる。
暗いテント内をまばらに設置された白熱球がフィラメントを赤くして、辺りを照らしていた。
「すみませーん」
誰かいないか亜子が呼びかけても虚しく声が消えていく。
仕方なしに亜子は腹を括ってどんどん奥へと歩を進めた。
天井に張られたロープから重い幕が吊り下げられて、うまい具合に空間を区切る壁の役割をしていた。通路となる場所には通り易いように人が通れる分の出入り口が開いていたり、手でのけて潜れるようカーテンのような軽めの布が下げてある。布とロープさえあればできる簡単設計のせいか自由度が高く、三角形、四角形の部屋ならまだしも五角形、六角形、その他歪な形と大小様々な部屋が続いていた。
一通りおかしな形の部屋が出尽くした頃、わりと広めの部屋に辿り着いていた。
獣臭さが鼻につく部屋。
ここに来てようやく生き物と遭遇するが、話のできる相手ではない。
大きな檻にトラ、ライオン、クマと言った猛獣と言われる類の動物が等間隔に置いてあった。
動物園でしか見たことのない動物を至近距離で見て、亜子は固唾を呑んだ。
サーカスの動物だけに調教はされているだろうが、あまりお近づきにはなりたくないものには変わりない。現に動物達が薄暗い照明の中、侵入者である亜子を、目を光らせてじっと見ていることが怖かった。
突如、ライオンが低く唸りだす。
背中に嫌な汗が伝うのがわかる。
亜子は逃げ出すように、まとわりつくカーテンを払いのけて次の部屋へ続く通路を潜って行った。
また幾つかの部屋を通過して、見るからに埃っぽい部屋に辿り着いていた。
いまだに遭遇者ゼロ。いい加減そろそろ誰か出てきてもいいのではないかと亜子はぼやきたくなってきていた。けれど、人っ子一人出てこないのだから仕方ない。
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