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狂はこれ以上何も言わなかった。
康子が他の部屋へ連れて行こうとした時でさえ、何の反応も示さなかった。
彼が入った部屋はひどく、静かだ。
『若様――……』
彼が消えた方向にレンは視線を投げた。
彼もずたぼろ状態で、酷い傷を負っていた。
縛っていた髪は解け、雄々しい翼はむしられた様に傷んでいる。いたたまれない焦燥感にかられて、レンはどさりと腰を落とした。
とそこへ、一報を受けて駆け付けていた千里がそっと声をかける。
茜は千里が狂と繋がっている事に驚愕したが彼の存在が非常に有り難く思えた。
「レン兄ちゃん、痛み止めを飲んで……あまり追い詰めても身体を壊すだけだよ」
千里は薬草に関する知識が豊富であり、調合した煎じ茶を台所から持って来たのだ。康子は弱々しく笑んで、レンの背中に掛け布団を掛ける。
『いや、追い詰めたらもっとやばいのが若様なんだよ』
両手で抱いた膝の上に顎をうずめるようにしてレンは呟く。
幼少期から見守って来た斑尾と比べたら、後から出会ったレンは時間が短いが何となく分かる事はあると。
斑尾本人から聞いた話だと、狂が一回だけ幼少期時に酷い時期があったらしい。詳しくは答えてくれなかったが、しばらく抜け殻で長い時間をかけて少しずつ感情らしきものを取り戻したという。
『康子殿だけでなく、斑尾殿もずっと側にいてくれなかったら滅茶苦茶だったと思う。今は……ちくしょう』
「――」
狂を護る為、理由はただそれだけ。
斑尾とレンは居場所を突き止めて離れるはずだったが、思わぬ襲撃を請け負った。常に落ち着き払って振る舞っている斑尾だから大丈夫だと思ったのだが。
最悪の形で狂に知れる結果となった。
今はしてやれる事が何もない。
どうすればいい。混乱して、なすすべもなく。
茜は同じ問いかけを自分の中で繰り返した。
平和が壊れていく。
感情の色のない、静寂な空間に茜はひやりとしたものを感じていた。
(嫌だ。私の目の前で誰かが傷付いて行く……。そんなのもう嫌だ)
息が苦しい、気持ち悪い。
どろどろと溜まる負の念に気分が悪くなった茜はふらりと廊下へ足を向けた――。
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