第七抄

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*  *  * ――またあの夢だ。 ひやりと冷たいものが体の芯を抜けた。 過去の忌まわしい記憶が甦る。 薄暗くて長い廊下に狂はぽつんと立っていた。 見慣れた場所だと思い、すぐに自分は過去の屋敷にいるのだと納得する。 部屋を仕切る障子から漏れる光だけが仄かに明るい。 確かこの時、十歳になる頃だった。 父母は康子と狂を首都から連れ出して、離れた土地に籠っていた。 いつもならとっくに眠りについてるはずの時間に狂は床を抜け出す。 「お父さん……?」 目を覚ました狂は、父母の部屋から奇妙な気配がする事に気づいた。 いつもより何かがおかしい。 父親は狗御家の当主ながらも、 受け継ぐ力が薄く、身体が弱い方であった。 最近は食事もほとんど摂れず、日に日に痩せ衰えていく方である。 部屋に閉じ籠るようになった為、狂の修行と世話はほぼ斑尾に任されていたのだ。 「うぅ、うぅ、うーーーっ」 獣じみた唸り声が聞こえた。その後に、かすれた息づかいのような音がする。 不安に思って小さい彼は部屋に近づき、そっと開けた。 「……!?」 真っ先に目に入ったのは、鮮やかな赤い色彩。 床の血溜まり。 家具も壁も赤、赤、赤に染まってる。 次に、壊れた人形のように転がっている母親。 狂は震えながらも見つめた。 これは悪夢だ。現実じゃない。 悲鳴をあげたかったのに声を出すことも、動くことも忘れていた。 ずるり、と死体の近くで蠢く者が狂を見る。 そこにいたのは人間の父親ではない。 淡い光を伴って、額に突き出した角。 「お、に……?」 いや、それには見えない。 どす黒く醜い肉の塊。巨大な芋虫のように見えた。 おぞましい異形――。 ずるり。ずるり。 顔の判別すらできない二つの窪みから赤い筋が流れていた。 「ア……アァ……!」 ぶよぶよと蠢く異形から理性の欠片も感じ取れない。 「ま、斑尾……!康子!誰かお父さんとお母さんを助けてっ……」 従者の名前や姉の名前を呼んでも、すぐには誰も来ない。凄まじい重荷に小さい彼は身をよじる。 殺意にみなぎった異形は、奇怪な唸り声を発して距離を縮めてくる。 殺されると本気で思ったのだ。 どうしても此処で死にたくない、と心の中で強く念じる。 ふつふつふつ。 先ほどまでは感じられなかった気が、狂からうっすらと立ち昇った。 とろりと黒い靄が這うように広がる。 その時、たまらなく嘆く声を彼は聞いた。 ひそりと秘め事でも囁くように。 「これが私の最期か。血を濃く継ぐ狂は……オ、オオオオーー!!」 狂気のような父の絶叫。 咆哮とともに狂に掴みかかった刹那。 「あああぁっ!」 ざわり。叫ぶ狂の瞳の奥で鈍い輝きがゆらめいた。 轟! 小さな彼から、ぶわっと唸りをあげて広がる闇。父親の身体は瞬時にその闇にのまれた。 幼い頃の記憶はそこで所々途切れて覚えていない――……。 その後、転倒した蝋燭の火が周りに燃え広がったらしい。火事で屋敷が全焼し、康子と狂は危機一髪で斑尾に助けられた。 .
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