第七抄

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びょぉぉぉぉおおおう……!! 凄まじい違和感が大気に溶け込み、闇をぴりぴりと振動させていた。 篝火がかき消された為、青白い月明かりだけが仄かに周囲を照らしている。 空気の色が違う。 この妖気は――。 弾かれたように顔をあげる鬼姫は動きをゆるめて、視線を舞殿の上方に滑らせる。むせ返る茜もはっきりと気づいて、同じ方向を見上げた。 「な、に……?」 舞殿の頂点に立ち上がる深く凶々しい暗黒の陽炎。 やがて人の丈ほどの高さに浮いた、それ。 暗黒の中にふわりと浮かんで輪郭を成したのは、 銀の光を仄かににじませる、凄まじき憤怒の表情の鬼の面。 身の内の怒りと哀しみをさらけだし、 人が鬼へと変わりゆく表情「般若」だ。 鬼の面の下に白い首、引き締まった肢体が続いていた。 ずっとそこにそうしていた、とでも言うように立っているのは面を被った白道着姿の人間……先ほどは舞殿に横たわっていたはずの、一人の少年。 ざ、ざあぁ。 夜の大気に、桜の花びらが妖しくざわめく。 幻の月明かりが射して、そこに立つ姿は息詰まるように美しい――。 a21e6d53-4074-4c5c-bc27-565137018a13 沈黙が怖気を誘う。 「狂……?」 茜は明らかに困惑して短く呟いた。 般若の面をしている人間は、間違いなく狗御 狂だ。けれども、茜の記憶にある彼はこれほどの凶々しい気を身にまとってはいなかった。 くっと鬼姫の喉で笑いが弾ける。 『惨めなものね。緋凰が鎮めた血筋は再びこの世に復活なされたわ!』 歓喜に満ちた声が闇に溶けてゆく。 鬼姫は、手を茜の首から離すと、恍惚とした表情でよろよろと手を差し伸べた。 茜は拳を固く握りしめ唇を噛んで仰いだ……この意味はあまりにも明白である。 静かに研ぎ澄ました空気。 その鬼面は白装束を柔らかに靡せ、高みから鬼姫を見下ろしている。ふうっと黒い妖気を引いて、面が動いた。 「――」 ふわり、と空気のような身軽さで面をつけた彼は地へ降り立った。 凄まじい妖気を纏う二人が対峙する。辺りを取り巻く全てが二人の異形の気に息を潜めたかのように静かだ。 彼も自ら鬼姫に近づく。茜の目前で、二人の距離が次第に縮まっていく。 目の前に立って、顔を見上げた鬼女を凝視したまま彼は無言だった。みっしりと満ちた妖気に鬼姫は酔いしれる。 『狂様……もう誰にも渡さないわ。わらわの愛しい男にそっくりよ』 鬼姫の細い指が伸びる。 狂の胸から首筋へ、それから鬼面へと這うように触れた。面の輪郭をなぞるように動いていた指が、ゆっくりと面を外したのだ。 コンッ。 「般若」が彼の足元に落下した――。 .
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