第七抄

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わずかの間をおいて、彼は伏せていた目を開く。 (違う) 身体を起こした茜は愕然と目を見張った。 違う。 あれは――茜の知る狂ではない。 異形の血が流れていると鬼姫から聞いた、その意味が今なら分かる。 (だから、斑尾さんとレン君も狂に対して、尊敬の念を抱いて従えているんだ……。千里君もそれを分かっている) 今まで感じた事の無い恐怖が彼女の心の中に生まれ、身動きが出来ない。 緩やかな狂気に燃える目。 金色の双眸が、炎よりも煌々と輝きを帯びていた。 狂の口元に笑みが浮いている。 見る者を凍り付かせるような、感情のない冷笑。 「満足そうだな、鬼姫」 初めてその唇が言葉を紡いだ。 低く、低く、陰にこもった声。 誰もが恐れ慄く威圧感。 悪寒が背筋から全身へ広がり、細胞一つ一つを麻痺させていくようだ。 妖気が心地よいものであるかのように。 黒い鱗粉のような光に縁取られ、凄絶なまでに妖しく美しい鬼がそこにいた。 『ええ……ずっとあなたに会える事ばかりを願っていたのよ』 ――同じだ。かつて彼女が愛し、記憶にとどめていた誇り高い鬼の姿だと。 鬼姫は幸せそうに狂の胸に顔を埋める。 そうか、と狂はうっすらと微笑んだ。 ふいに。 狂の腕が鬼姫の背中と頭を引き寄せ、抱きすくめた。いとしい者を包み込むように、優しく。 茜はその光景に小さく息をつめる。 鬼姫の背中に回された腕は、彼女の自由までは奪ってはいない。彼女を抱きすくめたまま、彼は無防備だ。 『ふふふ。人間の霊魂はもう消滅したのね。狂様、新たな覇者となってわらわと共に鬼族の力を知らしめましょうぞ』 永劫にもこうして寄り添っていたいと、鬼姫もすっかり身を委ねる。 ――愛してる、と焦がれるように目を閉じた。 .
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