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空気が震えた。
この男はまだ理性があるだろうけど、その気になれば躊躇わない。情の欠片もなく、後悔すらしなさそうな感じがある。
「狂……っ!」
息苦しいまでの重圧に耐えれる者はどれほどいるだろうか。早く命乞いしろと警鐘が鳴るに反し、茜はぴくりとも動けなかった。
それほどに狂から吹きあがる妖気は強大だった。
死を望むほどの苦痛。
一瞬で死ぬ方が救いであると思うほどに。
茜は双眸を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「会った時から、関わるなと警告したのに、踏み込んで来たのはお前だ。物凄く苦しそうだな……?ここで一思いに楽にさせる事も出来るぞ――」
彼が殺意を伴って腕を振り上げた時、
茜は震えながらも意を決したように小さな声を出した。
「き、気づくのが遅くてごめんね」
狂の腕がぴたりと止まる。
ごめんね、と彼女は再び同じ言葉を狂に投げかける。冷酷な男の表情がほんの一瞬に苦痛に歪み、すぐに殺意へ変わった。
その苦痛を茜は見逃さなかった。
「黙れ。これ以上言うな!お前に何が分かる!?」
「もう……もう一人で全てを背負わないで。重すぎるよ……このままだと狂が壊れちゃうよ!! 康子姉さんも斑尾さん達もこうなる事を望んでないはずなのに!」
「――!」
かつて似た言葉を聞いたことがある、と狂は凍り付いた。
どうして思い出せなかったんだろう。
それを思い出せないほど、自分はいつの間にか闇にどっぷりと染まってしまったのか。
遥かな遠い日の優しい面影。
まだ床に伏せる前の実父が、幼い狂に淡く微笑んだ。
「――いいか。狂、人間はどんなに強くても独りでは生きていけない。誰かに頼るという事は恥ではないよ」
「そうなの?」
「助けを求めれば、きっと斑尾だけでなく、大勢の者が手を差し伸べてくれるはず。そして、側にいてくれる者を大切にしなさい。
そんな相手が一人も居なくなった時が一番怖いんだよ。自ら、独りになっては駄目だからね」
「……うん!分かったよ!」
当主を支えていた斑尾も狂を見つめ、穏やかに笑みを浮かべていた……過去の記憶。
彼が心の奥底に捨てて忘れてしまったもの。
それは本当ならば、何物にも代えがたく大切なはずの、優しく温かな時間。
彼が殺した父との、幸せな思い出だった。
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