第七抄

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空気が震えた。 この男はまだ理性があるだろうけど、その気になれば躊躇わない。情の欠片もなく、後悔すらしなさそうな感じがある。 「狂……っ!」 息苦しいまでの重圧に耐えれる者はどれほどいるだろうか。早く命乞いしろと警鐘が鳴るに反し、茜はぴくりとも動けなかった。 それほどに狂から吹きあがる妖気は強大だった。 死を望むほどの苦痛。 一瞬で死ぬ方が救いであると思うほどに。 茜は双眸を閉じ、深く息を吸い込んだ。 「会った時から、関わるなと警告したのに、踏み込んで来たのはお前だ。物凄く苦しそうだな……?ここで一思いに楽にさせる事も出来るぞ――」 彼が殺意を伴って腕を振り上げた時、 茜は震えながらも意を決したように小さな声を出した。 「き、気づくのが遅くてごめんね」 狂の腕がぴたりと止まる。 ごめんね、と彼女は再び同じ言葉を狂に投げかける。冷酷な男の表情がほんの一瞬に苦痛に歪み、すぐに殺意へ変わった。 その苦痛を茜は見逃さなかった。 「黙れ。これ以上言うな!お前に何が分かる!?」 「もう……もう一人で全てを背負わないで。重すぎるよ……このままだと狂が壊れちゃうよ!! 康子姉さんも斑尾さん達もこうなる事を望んでないはずなのに!」 「――!」 かつて似た言葉を聞いたことがある、と狂は凍り付いた。 どうして思い出せなかったんだろう。 それを思い出せないほど、自分はいつの間にか闇にどっぷりと染まってしまったのか。 遥かな遠い日の優しい面影。 まだ床に伏せる前の実父が、幼い狂に淡く微笑んだ。 「――いいか。狂、人間はどんなに強くても独りでは生きていけない。誰かに頼るという事は恥ではないよ」 「そうなの?」 「助けを求めれば、きっと斑尾だけでなく、大勢の者が手を差し伸べてくれるはず。そして、側にいてくれる者を大切にしなさい。 そんな相手が一人も居なくなった時が一番怖いんだよ。自ら、独りになっては駄目だからね」 「……うん!分かったよ!」 当主を支えていた斑尾も狂を見つめ、穏やかに笑みを浮かべていた……過去の記憶。 彼が心の奥底に捨てて忘れてしまったもの。 それは本当ならば、何物にも代えがたく大切なはずの、優しく温かな時間。 彼が殺した父との、幸せな思い出だった。 .
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