第八抄

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――岩手県、遠野。 険しい山々に囲まれた隔絶された環境によって古くからの信仰が守られてきた。その為、河童や雪女、その他不思議な存在を生み出して、今は民話の里と呼ばれる土地。 北にそびえる早池峰山が、白煙のような霧に囲まれて輪郭を溶かしている。 狂と凪は新幹線から電車へ乗り換えて、東京から三時間あまりでようやく遠野に着いた。 東北に来るのは初めてである。 ホームに降り立つと、細い雨が降りしきっていた。 空気の肌寒さにここが山峡の地であることが実感できる。 荷物を片手に、狂は改札口を出てタクシー乗り場に足を止めた。 「早池峰山の近くにある愛宕(アタゴ)神社までお願いできますか」 タクシーに乗り込んで行き先を告げると、 ドアを閉めようとしていた初老の運転手は不思議がるような表情を浮かべる。 「観光ですかな。最近燃えたそうで、お兄さんほど若い人が見て面白いものなんて何もないですよ」 「大丈夫です。観光で来た訳ではないのでお願いします」 冗談で言ってるわけではないというふうに狂の表情はほとんど動かない。 いかにも寡黙な風情の運転手は黙り込んだ。 刹那、鋭いものが顔に浮かんで、消える。 分かりました、と一言応じるとタクシーを走らせた。 雨粒が車の窓にぶつかって、流れ落ちる。 駅から街の中心を抜けると、視界は一気に田園の風景になった。 鮮やかな緑の濃淡。 この地を外部から隠すように、どの方角に目を向けても山並みが途切れることは無い。 初老の運転手は一言もしゃべらない。 ただ。 沈黙している中、周りを全然気にしない者が一人いた。 隣に座っている凪が窓から見える景色をお気楽に告げ知らせている。 『あ、見てよ見てー。田んぼに綺麗なサギがいるよ!狂さんは中々見ない景色でしょー!』 「そうだな……」 こういう時は反応を返すだけでいい。 こいつに頼んだのが間違いだったかもしれない、と狂は胸の中で思った。 .
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