1615人が本棚に入れています
本棚に追加
/220ページ
「――お兄さん、訳ありそうな様子だね」
その時、前方を向けたままの運転手がぼそっと口を開いた。愛想の欠片もない。
狂達を警戒しているのが伝わる。
耳にした狂は注意深く相手を見る。
半ば、予期していたように。
霊力らしきものは何も感じられないけれども、落ち着きぶりに奇妙な男だと思った。
「……早池峰山の霊水を少し頂く為に来ました。愛宕(アタゴ)神社は関係がありそうだと思ってついでに寄るだけです」
大抵、嘘は言っていない。
やるべきことがあって、来たのだ。
陰陽師だと名乗れない為、当たり障りのない回答をする。
相手はミラーでちらっと一瞥する。
再び、重い沈黙。
だがしばらくして打ち切ったのは運転手の方だった。
「そうでしたか……霊水については詳しく知りませんが、愛宕神社辺りはあまり長居しない方がいい。ここは雨がずっと降り続く日があっても普通ですけど、最近は異常な事が起きてるんですよ」
「異常な事ですか?」
「愛宕(アタゴ)神社を守っていたお坊さんが山火事に巻き込まれてしまって……それから別の日に、早池峰山から火が出ているのを見たという声もありましてね。もっぱらそういう噂になって、遠野の人間たちは気味悪がって近寄らない。だからお兄さんも事が済んだらすぐに離れた方がいいですよ」
「なるほど……そういう事があったんですね」
昔の風景が残る遠野では、今でも伝承や不思議な出来事を信じる人々が息づいている。日頃の会話でその話題にのぼる事はあるようだ。
地元の人間は、謎に包まれた早池峰山を恐れている――。
運転手の耳にも入るほど異常だというのか。
狂は静かな声音で、お気遣い頂きありがとうございます、と頷いた。
.
最初のコメントを投稿しよう!