第八抄

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車は舗装された道路から、脇の林道へ入った。 昔はまさに人里離れた地であっただろう。 どうぅぅぅ。ど、うぅぅぅ……。 地鳴りのような音を聞いたのはその時だった。 その道に入った途端、狂は一瞬、時の流れの違う世界に入り込んだような感覚がした。 「……?」 くらりと目眩を覚えた狂だが、運転手は何も反応していない。凪の方を見ても、彼はいつもと変わらぬ佇まいをしている。 では、空気が変わったという幻聴を彼は聞いたのか。 押し寄せるような樹木の枝葉がガラスをびしびしと叩く。そのまま狭い道を走り続け、やがて傾斜辺りで運転手は車を停めた。 「――ここが愛宕神社の入り口ですよ。これ以上進めないので、足で登ってください」 「はい、ありがとうございました」 狂達が車から降りると、足がふわりと腐葉土に沈んだ。見上げれば、木々が空を覆うように枝を広げている。 正真正銘の山の中だ。 初老の運転手はお気をつけてと言うと、器用に向きを変えて走り去った。 彼に教えてもらった方角を見れば、樹林を縫うようにして、人間が通れるほどの細い登り坂。 しんと空気の動かぬ空間がそこに広がっている。 樹木の幹は苔が生してうっすらと蒼い。 『ふぅん。人が全然来なさそうだよねー』 くるりと辺りを見回した凪は狂の横顔を見ると、失笑した口調で言った。 『もぉー。狂さん、無愛想な顔してたら運転手さんも困っちゃうでしょ』 「……お前が延々と、おすすめのお土産とかグルメとか話し始めたからだ。旅行気分で来てるんじゃないんだぞ、真面目にやれ」 c94bb69c-c950-4b0c-8154-f89e14ca838d 『やだなー、僕は気持ちの切り替えに自信あるよ。いざという時はやるから大丈夫さ』 バチッと片目を閉じて笑む凪からは説得力がない。凪のふわふわして掴み所が無い所に、また狂がげんなりと呆れ顔になる。 彼は自分の行動をあんまり気にしてないようだ。 お構い無しに、すいっと宙に視線を泳がせた。 どうぅぅぅ。 再び、水面の波のような幻聴が運んできた。 凪の視線を続いて追う狂は鋭く息をつめる。 「お前も……気づいてたのか?」 『うん、間違いない。いわくつきの場って感じだ。実物を見てみないと分からない事もあるねぇ』 枝木の間から見える空の大気が水面の波のように揺れている――。 違う、本物のさざ波だ。 愛宕神社辺りだけでなく、早池峰山全体を覆っている波は水の霊気だった。 ――静かに、美しく、青々とゆたう結界。 凝視してると、それはふっと途切れたように跡形もなく消えていた。 (早池峰山の中に霊水が涌き出るのも納得する……しかし) この違和感は何だ。霊気とはもう一つ別の。 狂はゆっくりと視線を坂道に引き戻した。 足で苦になるような勾配ではない。 狂と凪は茂った樹木をすり抜けて軽々と斜面を進んだ。躊躇いもなく、愛宕神社がある上へと駆け上る。 足を止めると、二人はそこにあるものを見た――。 .
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