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たまに、本当に気紛れに、壁越しに歌が聞こえてくる時がある。男というには高い声だけど、女というには少し低い。未発達な少年の歌声。単調なギターの旋律と共に出鱈目な英語で何かの童謡を、歌っている。
何処かで聞いたことがあるようなそんな感覚を覚えた。
「ブラック、シープ…?」
ブラックシープ、黒羊。そんな童謡あったかな。マザーグースの一節にでも出てきそうな雰囲気はあるけれど。
歌の中に混ざっていた単語、ブラックシープ。白い羊の中で異色なその羊。
彼はどんな扱いを受けていたのだろう、なんて柄にもなく感慨に耽っていた、休日。
珍しく歌声が移動する。ギターの音が止み、窓が開いた。歌声は先程より一寸大きい。窓、いや、ベランダ。
あの歌声の主が俺の目の届く場所にいる。膨らむ好奇心に勝手な期待。まあ、それだけ暇なんだと認識してもらえたら幸いだ。
何が幸いなんだって話だが。
カーテンの向こうは別世界のように明るかった。空は白く濁っているのに。籠りきりはよくないな、なんて自分に溜め息をつきながら窓を開く。歌声が止んだ。
歌声の主がそこにはいた。その声から少年を想像していた俺は少しばかり狼狽えもしたがないってこたないし、平静は装えた、と思う。
ベランダの小さな柵の間にしゃがみこんでいる、俺と同年代の青年。
思わず。そう、思わずだ。話しかけていた俺に俺自身が驚いた。
「こんにちは」
青年は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。思っていることが顔に出るようだ。いや、怪しいのは解る。解るけど隣人なんだし、もうちょい警戒解いて頂く訳には、ああもう気まずい。気まずいなあ、もう。
「…まだ、朝ですけど」
腕時計を見て、ああそうだねなんて、だから何だよって。俺が俺自身に突っ込みたい。何をそんなに緊張するのだ。
落ち着け。落ち着けば大丈夫。何が。知るか。会話だ会話。
「そ、そういやはじめまして、だ、ね」
「…すみません。挨拶にも伺わずに」
青年の言葉には語尾に面倒で、とつきそうな勢いだった。あれ、何で俺大家みたいになってんの。何で近所のやなオバサンみたいになってんの。どうやらいきなり着地に失敗した模様。
いいから落ち着けよ、俺。何をそんなに緊張しているのか。俺にもよく解らなかった。
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