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玉音放送はよく聴きとれた。
今考えると不思議な気もする。
総勢数十名の隊員が、かつて教員室だった広い部屋で聞いた。
そこは、かつて小学校だったものを軍が借り上げた兵舎だった。
ラジオの性能もよくなかったはずだし、兵舎の立地から言っても電波事情は悪かったはずだ。
だが、よく聴きとれた。よくわかった。
なぜか、感懐とか、衝撃とかはなかった。
放送の後で部隊長が説明をしたが、要は、戦争は終わったのだと言った。
部隊長の説明など要らないほど、ぼくらは戦争が終わったという事実ははっきりと理解できた。
要は、戦争は終わったのだ。そういうことか。
ぼくの気分もその程度だった。
実感、はっきりした現実味(リアリティ)がなかったからかもしれない。戦争という事態の中にあったという現実味も、終わったという現実味も。
終わったという言葉と、終わったのだという現実がうまく噛み合わなかったような気がする。
戦争自体が奇妙な実感の中にあった。
まぎれもない現実ではあった。
友人が順に戦地に赴き、幾人かは死んでいった。
空襲もあった。
厳しい食料事情のなかで社会は荒廃していた。
中学でも、いつのころからか授業はなくなり、食料生産に明け暮れていた。ぼくらは学校で大きなキャベツをつくっていたのだ。
まちがいなく戦争の実感はあったはずだ。だが、ゆきつく先がひどく曖昧だった。負けるという気持ちはしなかった。勝つのだという言葉が明確に頭の中で繰り返されていた。だが、勝てそうな気もしない。とにかく非常時が続いている。そんな戦争だった。
終わったらどうなるのかとか、どういう終わりかたをするのかなんて、誰にも見えなかったはずだ。
本当に終わったのだという感懐と、これまでと、これからが重くのしかかってきたのはもっと後だ。その意味では、玉音放送自体はぼくに終戦を告げ知らすものではなかった。
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