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木曜日の一時間目は数学だ。
三年で習う始めの単元は、「式の展開」。
それでも都留が馬鹿でかい教師用の三角定規を持って来ているのは、生徒への暴力のために他ならない。俺だって何度もあれの餌食になった。原因は主に遅刻である。
あれからというもの、教室の空気はがらりと形を変えた。悪口雑言、暴力など、激しいものはまだ無いが、誰もが「彼女」を意識的に視界に入れない。
それは俗に「シカト」と呼ばれる典型的ないじめの入り口だった。
これ以上関わりたくない。それがきっと全員の本音だった。アイの怒りの矛先が、いつ自分に向くかもしれない。だから。
沙穂ちゃんから表情は抜け落ち、憐みの視線すら遮断するように、彼女は下を向いて歩くようになった。
また、あえて存在感を消すことで、かろうじて息をしているようにも見えた。
「じゃあ、練習問題の四角一と二、宿題な。はい、委員長」
四角とは、問題番号を囲む図形を指している。四角は大問、丸は小問であるのが基本だ。
「起立」
……きつい。
沙穂ちゃんの口が、号令の言葉を放つたび。叫び出したくなる衝動に駆られるのだ。腹の奥からグッと詰まる、どうしようもない気持ち。
「礼」
彼女が声を出すのは、号令のときだけ。「松崎 沙穂」が生きていることを思い出させる瞬間。
「ありがとうございました」。最後に全員で声を揃えながら、授業終わりの挨拶。
誰の顔を窺っても、無表情で何も掴めない。みんなは何を思いながら、沙穂ちゃんの声に自分の「ありがとうございました」を重ねているのだろうか。
――このまま放っておいて良いわけない。
いじめは次第にエスカレートする。このままだと、教室の空気はいずれ自分達にはコントロールできない力を持ってしまう。
「那子―」
休み時間は、男子は男子、女子は女子、で固まることが多い。だからアイは、那子の名を呼ぶ。
「森也、宿題写させて」
圭輔の声が聞こえたので、顔を上げる。
「なんの?」
「数学」
数学というのは、さっき授業が終わったばかりのはずなのだが。圭輔は、返事も待たずに俺の机からノートを取り上げる。
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