残暑、去り難く

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  「えっ…」 夏生がわらしを睨みつけたまま片手で徳利を傾けた。 とく、とく、とメトロノームのように規律正しい音が座敷に響き、赤い杯にお酒が満たされていく。 そう、しっかり傾けられた徳利から、なみなみと、存分に満たされて… 縁を越えて、畳に流れ落ちた。 …ええっ!? まさかの事態に目を見張る。 何事かと、夏生と杯とわらしを順に見た。 だらだらとお酒が零れていくのに、二人は見合ったままピクリとも動かない。 そこへ牡丹太夫が夏生の背後から腕を伸ばし、やんわりと徳利を直させた。 滝のような御酌が終わると再び沈黙が訪れる。 「……」 「……」 わらしは夏生を見据えたまま一口でそれを煽った。 杯が音を立てて膳に戻されると藤さんが濡れた膳を下げてから畳を拭き、菖蒲さんがわらしの白い手を丁寧に拭い、無表情のまま去っていった。 新しい膳を用意するらしい。 「酌はこいつの仕事じゃない」 夏生の尖った声に何故か私が萎縮する。 「細かい事を言うな。面倒臭い」 「約束は守れ」 「貴様も俺の忠告を覚えておけ。俺の懐にのこのこと入ってくる者に容赦はせん」 忠告…?容赦…? 二人だけの間で交わされる言葉に眉を寄せていると、夏生が不機嫌そうな顔で私を見た。  
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