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Film.5「もう一人のジュリエット」
白い部屋。オキシドールの匂い。世界で一番嫌悪する場所。
「その後、どうですか。」
おおよそお洒落とは言えない男が、廉嗣の脈を取っている。
その側では、薄いピンクの衣を纏った女性が慈愛の眼を以て廉嗣を見つめている。
「いえ、別に。何も変わりませんよ。」
廉嗣は無表情で答えた。
その男は脈を計り終えると、丹念に廉嗣の左手首を擦りながら言った。
「うん、傷はキレイになったかな。心の傷はどうかな。」
廉嗣は一つ溜め息をつき、眼差しを男に向けて、
「何も変わりません。怖い夢は時々見ますけどね。ただ、それだけです。それ以外、何も変わらない。もう、あんな勇気もありませんし、だからまだ、ここに居るだけの事です。」と言った。
男は廉嗣から手を離すと、息をついて体を机の方へ向けた。
「怖い夢、ですか…。寺嶋さん、以前にも一度言いましたが、これは、あなた自身の心の問題です。他者である私にはあなたの心を治す事は出来ない。あくまで背中を押し、支えるだけだ。けれど、これだけは言わせて下さい。自殺する事は、勇気がある、ないじゃない。死ぬ為の勇気なんて存在しない。生きる為の勇気を持って下さい。勇気とは生きる為のものですよ。覚えておいて欲しい。」
男はカルテに何かを書きつけると、そのカルテを看護師に手渡し一つ伸びをした。
「また、会いに来て下さい。」
明朗な笑顔を向け、男はそう言った。
廉嗣は席を立ち、上着を着込むと、振り向き様に囁いた。
「先生、あなたは素晴らしい医者ですよ。」
そして廉嗣は診察室を後にした。
診察室を出て右の通路を進むと、広い中庭が大きなガラス越しに見える。
中庭は、一般病棟が入る建物と、診察室や医局のあるこの建物に囲まれ、真上から降り注ぐ太陽の光を浴びて原色のグラデーションを描き出している。
「行ってみよう…。」
その優雅な輝きに誘われる様に、廉嗣は中庭に足を踏み入れた。
何だか、懐かしい感覚が甦る。実際、廉嗣がここに足を向けたのはこれが初めてだった。
この病院には何度も足を運んでいるが、中庭はただ通りすぎる景色の一つでしかなかった。
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