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「パパになってやる。今度はお前のじゃない、桜の、だ」
晃志にそう告げられた日、里衣子のその後の記憶は殆ど、ない。
気付けば藤宮製薬と成村不動産の役員が揃って会議をしていて、今後がどうだとか言い争っていたことぐらいしか覚えていない。その怒涛の言い争いの中で恐怖を感じる度に晃志が肩を抱いて「大丈夫、俺が全部なんとかする」と優しく囁いてくれた。その言葉に心の底から安心したのと同時に、向かいの席にいる成村隼人が辛そうな笑顔で見つめていたことに、ひどく胸が痛んだ。
愛娘の父親は間違いなく隼人なのだ。一番心が潰れそうな時にずっと側で支えてくれたのは間違いなくこの成村隼人で。
どうして自分は裏切ることしか出来ないのかと、惜しみない愛を注いでくれた夫を目の前にして里衣子は泣き崩れた。それでもこの気持ちに嘘はもう付けなかった。
「…ようやく、本当の気持ちを言ってくれたね」
隼人から出た言葉はこれだけだった。もっと責めていいのに。自分はもっと酷い事をしたのだと、伝えたいことは山ほどあるのに里衣子は隼人を滲んた視界で見つめることしかできない。
「…里衣子。今までたくさんの幸せをありがとう。全部知ってて俺がずっと縛りつけてた。今度こそ、本当の幸せを手に入れて」
隼人が里衣子に向かって呟くと、話題は今後の里衣子の仕事についてに切り替わり、晃志と隼人が言葉を交わしている。全て自分のことなのにどこか他人事のようにしか聞こえてこない。晃志と一緒になるということはこういうことなのだ。分かっていた。だからこそ全力で逃げてきた。あまりにも傷付くものが多すぎるのだ。
それでも、晃志を選んだのは、自分自身だ。
幼い頃からの大きなこの気持ちは、一生かかっても消すことなんてできない。相手も自分を求めてくれているのなら、尚更で。
会議は一通り決着がつき、成村不動産のビルを晃志と共に去る。
「晃志」
「…ん、どうした?里衣子」
「…晃志が、私のパパで、良かった」
里衣子のささやかな呟きは、風の音に紛れて殆ど聞こえなかった。それでも晃志は里衣子の手を握り、愛おしそうに目を細める。
「…もう、お前のパパじゃない」
冷たい風と共に晃志の唇が里衣子のそれに重なる。今度こそは絶対に離さない、と。誓い合うように二人の口付けは長く続いたのだった。
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