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あのひとは先輩に気付かず、一人で携帯片手にあたりを見回している。
わずかに動いた、先輩の膝。
少しだけ浮いた踵と再び上に伸びようとする腕が、前を目指そうとする。
声を掛けようと大きく開いた口元と、幸せそうに綻んだ横顔。
身体中から溢れんばかりのその全ては、あのひとに注がれていた。
一歩踏み出そうとした、スニーカー。
けれど、履き古してよく馴染んだそれが前に出ることはなく。
深い深い海の底に引き摺り込まれるように、アスファルトへと戻った。
行き場を失った先輩の手は、力なく髪の毛を梳いて落ちる。
柔らかな曲線を描いていた唇は、一文字に閉ざされて。
ぎゅっと握られた拳が、静かに感情を押し殺すかのよう。
軽やかに駆け出したのは、千明先輩ではなくて、あのひとだった。
茶色いポニーテールを揺らしながら、満面の笑みで駆け寄るあの人の、花柄のワンピースの裾がふわふわとなびく。
向かった先にいるのは、黒髪の彼。
小走りで近付く彼女に目を細め、ふわりと優しい笑顔を落とした後で、小さな頭を撫でた。
そのまま、寄り添い合うようにして歩いていく二人。
もう、やめて欲しい。
これ以上、見ているのが辛い。
それなのに、わたしが視線を逸らせなかったのは、千明先輩が微動だにせずに二人を見守っていたから。
――『今は、恋愛する気分になれない』
なんて、うそ。
先輩は、うそつき。
身体中全部で、『好きだ』と叫んでいるくせに。
(Rule2.太陽に、うそをつく)
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