ある夜

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 別に劇的なきっかけではなかった。  またそれは、この4、5年、頭の端にも浮かび上がらなかったものだ。  シンジュが鳴いている。  深夜2時頃になると、いつもきまったように、吠えたてる。  近所迷惑だ。  この鳴き声を聞くと、ひところのほどではないが、申し訳なくて私は未だに冷や汗をかく。  だから、反対だったのだ。  きっかけは、今日の夕食後。  私は、いつものようにこの書斎で、ぼうっとしていた。  筆が進まない。  明日の朝になれば、担当の小谷君が額に汗を浮かべながら、口泡をとばしながら、私の遅筆ぶりを責め立てることだろう。  彼の汗は、むろん私に気を遣ってのことではない。  また、20も年の離れた彼が、私に切迫しながら催促するという無礼を申し訳なく思っているせいでもない。  単に暑がりなだけだ。彼はいつでも汗をかく。  迫る期限を思い憂鬱になっていたかというとそういうわけでもなく。  また、明日のいいわけを考えているわけでもなく。  何を考えていたのか。。  今思えば、小谷君の湿って黒光りのする額を思い浮かべていたような気もする。  そこへ、タケイチがはいってきた。  ノックなどない。  彼はまだ5歳だ。  私はマナーに興味もなく、その種の西洋じみた習慣をしつけた覚えもない。    だから、彼はいつもノックなどしない。    タケイチは最初なんと言っただろうか。  いつもの階段を駆け上がる音で、部屋に入ってくるのは予想できた。    驚きはしなかったが、あまり覚えていない。    なにやら かにやら、私の背中に向けて話しかけていた。    覚えているのは一言だけだ。   「だけどさお父さん、神様はいるの」   その後も、ひとしきりタケイチは話していたのだが、何を言っていたのか聞き取れなかった。  私は、彼の一言で想起された或る思い出に縛られるようだったからだ。     そういえば、あの時彼が、部屋をでていくまで一度も振り返らなかった。   タケイチの目を見なかった。
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