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『 生涯 』
八月の真ん中過ぎたある日
あんまり暑かったので
僕は初めて ビールを飲んだ。
苦くて 苦くて たまらない。
もう 一生 飲まない と決めた。
生まれつき地味で陰気な僕には
蝶々みたいに舞うなんて無理。
なんかフラフラするだけだ。
悪酔いした僕は 南麻布から
広尾まで 長い坂を転げ落ちた。
小さい頃 いつも遊んでた
有栖川公園が遠くなっていく。
一体どこまで堕ちるのかな。
読売ジャイアンツの助っ人外人が
住んでる高級マンションの前で
ようやくパタッと止まった僕は
キーがついたままの逆輸入車
「HONDA-CBR600RR」を盗んだ。
一度乗ってみたかったんだ。
慶應幼稚舎の子供達の為に
階段の一段一段が低く作られた
歩道橋を バイクで 渡った。
一度やってみたかったんだ。
そして天現寺からハイウェイに
乗って アクセル全開で走った。
西へ向かうドキドキを乗せて
多摩川の橋を200Kmで飛ばした。
格好いいかな 蝶々みたいかな。
だけど闇夜に黒いバイクで走る
僕は 誰にも遭わなかった。
やっぱり僕を羨む奴はいない。
代わりに災難って奴に遭った。
東名で浜松の中田島砂丘まで
行って海岸を走りたかったのに
川崎インターを過ぎた辺りで
エンジンの音響がアブラゼミの
鳴き声みたいになってきた。
爽快な夜を中断し 僕は一旦
横浜青葉インターで下りた。
ガソリンスタンドが見当たらず
必死に 探しまくったけど
どうしても見つからない。
いつの間にか僕は
小高い丘の栗林に迷いこんだ。
生まれて初めて悪い事をした僕は
針千本つけた蒼い栗たちに
あっという間に囲まれた。
期待感とは違うドキドキを胸に
地味で陰気で不安な僕はすっと
闇に溶け込み、栗の木に止まり
隠れて少し休むことにした。
どうしたのかな。
だんだんと息が苦しくなる。
木から落ちそうになる。
もう僕は虫の息みたいだ。
あと少しであの世だとわかる。
青い屋根の家から可愛らしい
女の子が走り寄ってきた。
「まりえは虫が嫌いよ!」
僕に毛虫退治用のスプレーを
しゅしゅーっと噴きかけた。
僕は毛虫じゃない、セミだ。
もう おしまいだ。
僕の羽根は全部開いた。
死ぬ瞬間 やっと
僕はアゲハ蝶になれた。
羽根を閉じたままの
仲間の死骸が羨望の眼差しで
僕をその世に迎え入れた。
僕の1ページの一生は
安楽死で 閉じて 開いた。
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