影 落ちる刻

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二宮はそれを聞いた途端に黙り込んだ。 真後ろ故に表情はわからないが、あきれ顔をしているに違いない。 どうやら相当ひどい目にあったのだろう。 思いだしたくもないとでも言いたげに、大きくため息を吐く。 「口に合うどころか、俺がボルシチになるところだったの。わかる?」 蓄まりに蓄まった貸しを返させる意味で行かせたお使いが予想以上に恐ろしいものだったらしく、青ざめた二宮を「ご苦労様ね」と労い、恵美は「で?」と先を促した。 「今までの貸しの分くらいは働いてきたんでしょ? 聞かせて頂戴」 ロシア政情に不穏な動き。 降って湧いたような情報が転がり込んできたのが一ヶ月程前。 帝政ロシアの政情不安など今に始まった話ではないが、今回はどうやら勝手が違う。 厄介ごとが起こると首を突っ込まずにはいられない野次馬根性が疼き、その性質故に東京から遠ざけられた事実も何処吹く風の恵美が二宮と連絡を取ったのはそれからすぐだった。 以前から“親交”のあった東京最大のロシアンマフィアに彼を送り、帝政ロシアで起きている何かを調べさせた。 ボルシチの具材が云々という言葉の通り怖い目にあってきたようだが、何も掴まずに帰ってくる男でもない。 何かが起きている。 出席するはずがないと思っていた、ロシア軍人による今回の国葬参列。そして皇帝の懐刀、イリヤ・シュトルーベがこの日本に現れた事でそれは確信へと変わっていた。 「……“ワシリー”という男、またはその幹部が国内に潜伏している……これはどうやら間違いないようだ」 より一層、周囲に聞こえないように二宮は声をひそめて言った。 “ワシリー” 本名、性別、国籍、何もかもが不明。 非常に“積極的な”手段を用いる可能性のある共産主義者という事以外は。 その動向は勿論、ロシア当局が彼(仮に男とした場合)についてどの程度掴んでいるのかさえもわからない。 狙いは何か。 共産主義による世界の席巻、或いは、専制政治の打破か。 農民から軍人、官僚、政治家に至るまでその構成員の数は膨大とされており、公安が最重要視するまでの組織となりつつあった。 それほどの組織にも関わらず、存在を噂される程度の情報しか流れない違和感は確かに残る。 しかし、今回の情報源はさすがロシア最大級のマフィアだけあってロシア国内の情勢に関しては我が国の無能な諜報機関よりも数倍信頼が置けた。
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