影 落ちる刻

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「うん……うん。大丈夫。お薬だってちゃんと飲んだし」 こちらの返答に対して電話越しにもわかる安堵の息をもらし、更に受話器の向こうの側からは、久しぶりに暑いから汗に気をつけろよ。と、案ずる声が届く。 「暑くないし、大丈夫だよ」 この電話で何回目かの「大丈夫」を繰り返し、そして後悔。 それが心配なんだ。とばかりに、寒いならちゃんと温かくしてなきゃ。と、予想通りの台詞が返ってくる。 ここ数日、彼はずっとこの調子だ。 五日前、妻に目の前で倒れられたのがよほど応えたらしい。 倒れたと言っても、ベランダに干してあったシーツに手を伸ばした際に襲われた立ち眩みでその場に座り込んだまま、しばらく立ち上がれなかった程度の事なのだが、目の前で妻が何の前触れも無く倒れる光景というものは、夫にとっては少々ショックが大きかったようだ。 もともとの貧血が妊娠を機に少し悪化したというだけのものなのだが、彼は今だに何か悪い病気なのではと心配している。 半ば無理矢理連れていかれた病院で「まぁ念の為」と出された薬を昼にちゃんと飲んだか。と、確認の電話をかけてくるのがここ数日の彼の日課。 安易に「大丈夫」を連発するのが不安を余計に煽っているのはわかっているのだが、気分が悪かったのはそれこそその日だけで、後はこの通り元気なのだから、「本当に大丈夫。信じて」と言う他に無い。 「うん。うん。わかってる。…………あ、かえで? ちょっと待ってね」 昼休みの最後に娘の声が聞きたいと、結婚前からなんとなく予想のついていた子煩悩の一面を覗かせた優しい夫の為に、テーブル上の電話機の横に座らせている娘の口元に受話器を持っていった。 いい子にしてるか。と、今年生まれた娘に問う受話器に、何かを訴えるかえで。 声を聞いた彼が満足したのを確認し、受話器をとる。 「それじゃあ、お仕事頑張ってね、幸人。……うん。はーい。バイバイ」 うーっ、うーっ。と欲しがるかえでから取り返した受話器にそう吹き込んで、気をつけろよ。と続いた言葉を聞きながら受話器を置いた。 ふう、と息をつき、電話の横に捨て置かれている錠剤に目をやる。 こうも元気だと、薬というのはうっかり飲み忘れてしまうものだ。 嘘をついてしまった事を心の中で詫び、それを手に取った。 「あー、胸焼けしそうよ。亜希」 からかう声が後ろから届いたのはその時だった。
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