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眠りに沈む飴蕗の額から手を退ける代わりに凍てつく様な井戸水で絞った手拭いを畳んでのせ、樒は窓の外を見遣った。
北の終の空にしか煌めく筈の無い極光。
人ならざる者の領域を示すもの。
霞霧の海に深く沈む此の土地を厚く守り照らす淡い光。
戦死者を選ぶ乙女達の鎧の瞬きから生まれる玉虫色を無表情で見上げ、彼は寝台を見下ろして極光と同じ光を宿す真珠色の髪を一房掬う。
しなやかにうねる飴蕗自慢の豊かな巻き毛を乾燥した指で梳くと髪に混じる柔らかな羽毛がふわりと無音の内に数枚、床に零れ落ちた。
牡丹雪が降り落ちる様を彷彿とさせる短い羽は足元を吹く微弱な隙間風に流されて僅かに舞い飛ぶ。
そんな白亜の部屋は静謐を湛え、樒の目には世界が時間の流れをも忘れ掛けている様に見えた。
「…否、違うか。
此処は…此の場所は……」
時間を忘れたのではなく、時間に忘れられた場所なのだから。
と誰に言うでもなく呟いた直後、背後の木扉[ドーア]越しに気配を感じて振り返る。
視線の先には只白い壁と木扉が在るだけだ。
然れど其の向こうから隠しもしない気配と隠し通せていない足音に目を細め、樒は擦り切れた白衣の裾を翻す。
何度往診に訪れても一向に変わらない。此の邸に棲む絡繰り仕掛けの異形達は、無機物が持つべくもない病的な迄の忠心で動いているのだから。
呆れと軽い侮蔑すら覚えながらも分厚い外面を被り直して、そっと静かに木扉を内側から開けようとした。
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