妻の日常

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「今夜は遅くなるから、先に寝ててくれ」 夫がネクタイをしめながら妻の顔を見ることなく伝える。 「はい。わかりました」 ――今夜『も』でしょ。 妻は心の中でそう付け加えながらも余計な事は言わず静かに応じた。 夫は真崎柊太朗。32歳。 総合病院の内科医。 それなりに男前で優しそうな外見で、それなりに患者にも看護師にも人気のある男だ。 妻は真崎柚子。24歳。 子供のいない専業主婦。 育ちのよい、しかし真面目そうな目立たないタイプの女。 忙しい夫は当直やら何やらで週の半分は家におらず、妻は広い家の中でいつもひとり暇を持て余す。 今夜は帰っては来るらしい。 「いってらっしゃい。気をつけて」 「いってきます」 家を出る時に夫は起きてからはじめて妻を見る。 その表情は一応優しくほほ笑んではいるけれど、妻にはそれがいつもの作られた笑顔だと分かっていた。 扉が閉まる。 今日も柚子にとって長い一日が始まる――。 ふたりが結婚したのは7ヶ月前の冬の日だった。 なんてことはない政略結婚だ。 柚子の父親、松浦茂晴は内科医で、それなりの規模の病院や施設を展開する医療法人松風会の理事長だ。 柊太朗の勤める病院もそのひとつ。 柚子には兄がいるから婿養子というわけではないけれど、柊太朗は将来の後継者のひとりとして選ばれ娘と結婚した。 この世界ではよくあること。 腕のいい内科医の柊太朗は結婚したその日から忙しい毎日を送っていた。 でも柚子は、柊太朗が帰らない理由を知っていた。 柊太朗には愛人がいる。 それも、この世界ではよくあること―――。
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