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当時、おれの持っていた傘はあの一本だけ。
傘なしで生活していては雨が降ったときに困るだろうからと、翌日にはこの傘を買っていた。
田畑に傘を渡したのは、実を言えばもう買い替え時だろうと思っていたからである。
かなりくたびれてはいたものの、壊れてはいなかったので捨てるのは忍びない。
かと言って、あの傘が手元にあったのでは、新しいものを買うべきかどうか迷ってしまう。
結局は、新しい傘を買うための、いい理由を作りたかっのだ。
そんなおれの算段も知らず、田畑ときたら何度も何度も礼を言って、嬉しそうに歩いていったっけ。
あんな顔を見られたんだから、雨に打たれることなんて大したリスクじゃない。
あのときのおれはそう思っていた。
田畑とは、それから一週間もしないうちに再会した。
キャンパス内で偶然会ったのだ。
先に声をかけてきたのは田畑のほうで、おれはそれまで、あいつが近くにいることに気づきもしなかった。
この間はありがとうございます。
それが第一声。
おれは、なんのことだか分からなかったんだよな。
二言三言話してみて、よくやく傘のことを思い出した。
すぐに思い出せなかったのは、最初に会ったときよりも、喋りかたがはきはきとしていたせいなのかも知れない。
彼女が今度傘を返しますねなんて言うから、気にすんなよ、と、おれはきっとこう言ったんだ。
古い傘がいらなかったっていうよりも、おれの渡した傘を、この娘が持っているんだという嬉しさを持ち続けていたかったのだ。
その後のことはあんまり覚えていない。
お互いに名前を教えて、電話番号やメールアドレスを交換して。
翌日からは仲良くなっていた。
「今日はいやにぼうっとしてるよな。風邪でもひいたんじゃないのか?」
温和な顔が、心配そうにおれの顔を覗き込む。
見苦しい顔ではないものの、男に覗き込まれてもあまり嬉しくはない。
「ひいてねーよ。傘を見てたんだ」
「ははは、なんだよそれ。風邪より悪いかもな」
風邪より悪いってなんだよ。
笑って応えながら、おれは傘をさした。
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