むつめ

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むつめ

「あれはな、ヘビノメじゃなくて、ジャノメだよ」  幾分落ち着いてきたおれに、温厚な顔の友人は笑いかけた。 「そんなことはどうだっていいや。もう、一生触ることはないだろうからな」  目覚めたとき、時刻は深夜三時を回っていた。  最初に見たのは雷造の顔で、この母性あふれる友人は、おれを布団まで運びずっと看てくれていたようだ。  話を聞けば、おれの悲鳴のせいでアパート中は一時大騒ぎとなり、血相を変えて飛んできた大家の婆さんに、雷造は何の責任もないのに叱られたらしい。  雷造は、おれの目が覚めるなり、どうしたんだと尋問してきた。  あんまりしつこいので正直に話してやると、そんなの夢だと笑われた。  その上、蛇の目の読みかたを間違えていたことを指摘され、もう、ありがたいやらむかつくやら。 「その夢のことだけどさ、傘が出てきたっていうんなら、やっぱり田畑さんのことが気になってるってことなんだろ」 「夢じゃねえって。まあ、気になってたのは確かだけどさ」 「ほら、やっぱりな」  満足そうな雷造。  田畑を振ったと知ったとき、そういえば雷造は怒っていたな。  勝手すぎるだろうって。  他人のことなのに。 「なんにせよ、さっさと寝ろよな。田畑さんのことは別にしても、そんな夢を見るってことは、風邪をひいてるってことなんだろうからさ」 「だから夢じゃねえって」 「ははは、こりゃあ重症だ」  重症ってなんだよ。  つられて笑うおれを温かい目で眺めると、雷造はゆっくりと立ち上がる。 「じゃあ、おれは帰るぜ。少しは寝ないと明日に堪えるからなあ」  ああもう今日か。  雷造は笑いながら歩いてゆき、少し経ってから玄関のドアの閉まる音が聞こえた。  再び一人きりになり、静か過ぎる部屋の中、田畑のことを考える。  さっきは、電話しそびれちゃったな。  もう、明日会って直接話すしかないみたいだ。  こんなおれを、田畑はまだ相手にしてくれるだろうか。  まだ、あの傘を持っていてくれるだろうか。  捨てていなければいいけれど。           おしまい
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