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十年前。
緋桜が江戸の街を歩き初めたのは、梅がいつの間にか散り、南から仄かに緩んだ風が、桜の蕾にいよいよ咲き頃を知らせるが如くに春を纏って吹き抜けた頃だった。
緋桜は九つ。
三善屋の息子は「娘」として街に出された。
緋桜は九つにしては余りに小さく余りに幼気だった。
雪の様に白い肌に、蕾の様な紅い唇。眉は美しく山を描き、二重瞼に大きく見開いた瞳は黒々輝き、小鼻の小さな鼻筋はすっと通って顔の造作を整えていた。
だが幼い緋桜は少し身体が弱かった。
小さな身体はそのせいであったかも知れない。
一ケ月に一度は寝付く。
表に出せば何か病を貰って来る。
そんな子供だった。
元々、母が弱い。
緋桜は母に近寄れぬ。
離れの襖の向こうから咳が聞こえるから、
ああ、母さまはいらっしゃるんだ。
そう思った。
自分も寝付く。
でも寝付く時は母の部屋の隣だったから、緋桜は自分の病をそう気に病んではいなかった。
緋「母さま。母さま」
そう呼ぶと、
襖の向こうから声が聞こえた。
「緋桜さん。またしんどいのですか。母さまが診てあげたいのだけど、母さまには出来ないの。ごめんね」
母さまはいつも謝られる。
緋桜は子供ながらに少しだけ悲しい気持ちになった。
緋「母さま。私は平気です。こんなのはすぐに癒えます。母さまが早く良くなる様に私が看病したい」
だけどね―
「緋桜さん。ここには来てはなりません」
母さまは言う。
それに、父さまも。
最近では父さまも母さまのお部屋に行かなくなった。
緋「母さま。ではお歌を歌いましょう」
襖を挟んで母子は漸く親子の絆を育んでいた。
しかし、寒い冬の日。
襖の奥から咳が聞こえない。
緋桜は幼心に母が癒えたと思った。
だって私も朝起きたら、身体が軽い日があるもの。
緋桜は父と母の禁を破って、母の寝屋に入った。
緋「母さま」
しかしそこは―
赤い。
畳がすえている。
髪が散らばっている。
着物がはだけている。
女の骸が転がっていた。
喉を掻きむしり、白目を剥いて、舌をだらりと垂らし、黒い血を吐いて無惨な顔で息絶えていた。
母さまがいらっしゃらぬ―
これはなあに。
緋桜には良く分からなかった。
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