≪三≫

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記憶に残る残らないは何が違うのか。 恐らく目で見た物や鼻で嗅いだ臭い、耳にした音、或いは触った感覚を反復して次の日に思い出し、またその次の日もそれを思い返すか否かで決まる。 母の寝屋で見た物。 それは緋桜の中には記憶として蓄積されなかった。 それは余りに無惨で、そして生きていた母とは繋がらなかったのだ。 緋桜は朝見た女の骸の事を、昼にはもう思い出さなかった。 緋桜にはそれが何か本当に分からなかった。 何か不思議な物を見た気はするのだけど、緋桜には関係がない気がした。それに死骸を見たのは初めだった。 外には殆ど行かぬ。 虫も捕らない。 猫も犬も鳥も身体に障る。 生き死にを見る機会がない。 緋桜の側には、生きている人しか居なかった。 死ぬるという事が良く分からない。 だから。 母の骸は緋桜の記憶の底の深い闇に眠った。 しかし、緋桜の外の世界はそれは大騒ぎであった。 おかみさんが亡くなったのである。 寝付いて六年。 長い。 だが、明日死ぬと思っていても、今日死ぬとは思っていない。 表の者も裏の者も大慌てである。 悲しみに暮れる者。 葬式の段取りをする者。 ただオロオロとしている者。 皆、それぞれに何かしていた。 なのに、本来一番悲しむべき亭主。 緋桜の父、三善屋伝兵衛は、 「ほう」 と一つため息を吐いて、へなへなと腰をついて安堵の表情を作っていた。 それを見た者は居ない。 只、緋桜だけは父の顔を見ていた。 父さまが嬉しそうなお顔をされた。 緋桜は思った。 やはり、母さまは癒えたのだ。 久方振りに父のその顔を見てそう確証した。 母さまは癒えたら湯場に行きたいとおっしゃった。きっとお出かけになられたのだ。私も行きたい。熱が冷めたら父さまにお願いしよう。 空になった母の寝屋と父の顔を見比べて、緋桜はそうぼんやり考えた。 だが、緋桜の熱は月が変わっても冷める事はなかった。 その間に母の葬式は済み、母の寝屋は開け放たれその気配は家の中から綺麗に消えた。 緋桜は死んだ母の姿を見る機会を完全に失った。 それから更に二ケ月。 梅が咲く頃、三善屋は新たなおかみを迎える事になる。 その腹には緋桜の兄弟が入っていた。
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