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記憶に残る残らないは何が違うのか。
恐らく目で見た物や鼻で嗅いだ臭い、耳にした音、或いは触った感覚を反復して次の日に思い出し、またその次の日もそれを思い返すか否かで決まる。
母の寝屋で見た物。
それは緋桜の中には記憶として蓄積されなかった。
それは余りに無惨で、そして生きていた母とは繋がらなかったのだ。
緋桜は朝見た女の骸の事を、昼にはもう思い出さなかった。
緋桜にはそれが何か本当に分からなかった。
何か不思議な物を見た気はするのだけど、緋桜には関係がない気がした。それに死骸を見たのは初めだった。
外には殆ど行かぬ。
虫も捕らない。
猫も犬も鳥も身体に障る。
生き死にを見る機会がない。
緋桜の側には、生きている人しか居なかった。
死ぬるという事が良く分からない。
だから。
母の骸は緋桜の記憶の底の深い闇に眠った。
しかし、緋桜の外の世界はそれは大騒ぎであった。
おかみさんが亡くなったのである。
寝付いて六年。
長い。
だが、明日死ぬと思っていても、今日死ぬとは思っていない。
表の者も裏の者も大慌てである。
悲しみに暮れる者。
葬式の段取りをする者。
ただオロオロとしている者。
皆、それぞれに何かしていた。
なのに、本来一番悲しむべき亭主。
緋桜の父、三善屋伝兵衛は、
「ほう」
と一つため息を吐いて、へなへなと腰をついて安堵の表情を作っていた。
それを見た者は居ない。
只、緋桜だけは父の顔を見ていた。
父さまが嬉しそうなお顔をされた。
緋桜は思った。
やはり、母さまは癒えたのだ。
久方振りに父のその顔を見てそう確証した。
母さまは癒えたら湯場に行きたいとおっしゃった。きっとお出かけになられたのだ。私も行きたい。熱が冷めたら父さまにお願いしよう。
空になった母の寝屋と父の顔を見比べて、緋桜はそうぼんやり考えた。
だが、緋桜の熱は月が変わっても冷める事はなかった。
その間に母の葬式は済み、母の寝屋は開け放たれその気配は家の中から綺麗に消えた。
緋桜は死んだ母の姿を見る機会を完全に失った。
それから更に二ケ月。
梅が咲く頃、三善屋は新たなおかみを迎える事になる。
その腹には緋桜の兄弟が入っていた。
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