≪一≫

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翠野の家は飯屋だった。 だが家は兄が貰った。 翠野は暖簾に店の名前を書く事だけを赦されて放逐された。 まさに放逐だった。 兄が店を貰って― 母と父は死んだ。 二人ともその年に流行った病だった。 年だったもの。 悲しかった。 だけど― もっと悲しかったのは兄の手の平を返した翠野に対する態度だった。 兄嫁。 「翠野ちゃん。あたいの褥においでぇよ」 母と父が死んだ夜にそう言った。 翠野は行かなかった。 夜中、父と母の屍を代わる代わるに抱いて過ごした。 寒いのだ。江戸は。 翠「父ちゃん。母ちゃん。温いか?わしがさすってやるから今日はゆっくり寝ていいからな」 父と母の手を合わさせて、半時経ったら入れ代わり、人の体にしては冷たい肌を温めようとした。 明け方の半鐘の音で家が朝を迎えた時だった。 兄嫁が兄を連れて翠野の前に現れた。 「翠野が私を厠に連れ込んで、腰巻きを剥いだのです。ほらここに掻いた後が」 見遣ると、兄嫁の太股に赤い筋がくっきり見えた。 翠野には覚えがない。 父と母を―。 翠野が話し始める前に兄が怒りをあらわにして翠野を攻め立ていた。 兄は嫁が好きなのだ。 兄の家族はもう母や父、翠野ではなく嫁になってしまっていた。 翠野がただの男に見えたのかも知れない。 「お前。俺の女房になにしてくれた!てめぇぶっ殺すぞ」 そこに居るのは兄ではなく嫉妬の焔に焼かれた、憐れな男だった。 翠野にも兄がただの男に見えた。 翠「わしは父ちゃんと母ちゃんを温めて―」 父と母に手をやると、裏の庭の日陰の土くれより冷たかった。 これでは、何の言い訳にもならない…。 屍に少しでも赤みがさしていれば翠野の身も立ったかも知れぬ。 だが― 青い。白い。黒い。 父と母はますます死んでいた。 「あたいは襲われたんだ」 兄嫁はにやりと笑い、その後大きな声で泣きわめいた。 「てめぇはもう用無しだ。葬式が済んだら出て行きやがれ」 がつん。 兄の拳が翠野の左の頬を捉えていた。 兄が先に部屋から出て、それを見る翠野に兄嫁が小さな声で囁いた。 「あたいに恥かかせるからだよ」 はだけた兄嫁の着物の裾から、赤い襦袢がちらりと覗いた。 喪に―。 翠野は吐き気をもよおした。
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