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~黄~
二ケ月あたり前から長屋の隣から音がする。
ぐっぐっぐ。
ぐっぐっぐ。
それは朝早くから始まって、一時したら音が変わる。
とんとんとん。
とんとんとん。
等間隔で決まった音を刻んでいる。
黄月は朝動かない。
早く起きたって一文にだってなりゃしない。
そう思っている。
用事がありゃあ戸ぐらい叩くさ。そうしたら起きてやっても良いがねぇ。
アタシの家に来るってこたあ、銭持って来るってことだからね。
そんな事を考えていたら、隣から三つ目の音が聞こえてきていた。
くつくつくつ。
くつくつくつ。
この音がし始めると、なんとも良い匂いがするので目が覚めてしまう。
一体、隣は何をしてるんだろうね。
黄月は隣に越して来た者の顔をまだ見ていなかった。
丁度二ヶ月前、黄月は仕事で長屋を留守にしていた。
どうやら隣の者は挨拶くらいはしに来た様だった。
長屋のガタがきた戸に干した大根がぶら下がっていたのだ。
井戸端でぺちゃくちゃと喋っている女房衆に尋ねると、黄月の隣の者が干し大根片手に挨拶に来たらしい。
若い男だと言う。
「ありゃあ若いね。まだ十七、八だね。月代なんかほんのり赤みがあって、あれと比べたらうちの亭主なんざ馬糞みたいなもんだわね」
亭主が馬糞ならおめぇはそれにたかる銀蝿だわ。
前歯のない浅黒い顔の誰ぞの女房を見て思ったが黄月は声には出さない。
にこりと笑ってやり過ごす。
黄「何をおっしゃいますやらおかみさん。江戸で一、二を争う美男美女の夫婦と言えば、本玄長屋の又吉さんご夫婦のことじゃありませんか。おっと、こりゃあ周知の事実。余計なことを言いやした」
お愛想も商売のうちよ。
「あら、やだよ黄月っつぁん。そんなに名が通ってるかい」
なんともうれしげに浅黒い女房は笑った。
このお江戸が大火事で無くなったって、お前らの話しなんぞ、誰もしねえよ。
頭に浮かぶのは毒の効いた言葉ばかりだか黄月は表に出さない。
何処を通るか、毒はするりと抜けて顔には笑みが広がる。
再びにこりと笑い、女房衆に背を向け黄月はすたすたと自分の長屋に帰った。
聞きたい事は聞いたからもう用はない。
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