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玄々と濡れた瞳が俺を見上げる。言葉の無い囁きが沸き立ち、澱んだ空気を紅く染めようとしていた。
「終りにしてくださらないのですか」
ゆるゆると、燻る煙が濁りを掻き乱す。その下から、艶やかな白磁の指が俺の脚へと伸びた。
かつて愛しいと何度も幾度も握り返した手。
「死んだら、と、仰有いましたね、確か。冥土を、共に、と、仰有いましたね?」
井戸の底はひたひたと、枯れ掛けて苔むした壁が、指の這った痕をありありと示していた。
息が詰まる。
何故俺は此処に降りているのだろう。
何故俺は、此処に立っているのだろう。 何時の間にか背後に感じるように為った視線。問い詰めた結果の暗い庵室の下に忍ばせた秘密が、夜な夜な腸を食む。
それなのに、何故俺は、あの蓋を開けて、釣瓶を伝って来たのだろう。
目を塞ぎたい現実を目の当たりにする為に。
屍の行方を視る為に。
――志帆の、骨を。
黒土を爪掛けた研ぎ澄ませた指先が俺を捕らえた瞬間、渇ききった喉に血が滲んだ。
「嗚呼、貴方の中は何て温かいのかしら!」
嬉々とした濡れた声音。何処かうっとりと、しかし地の底から呪うように、その声、その手は、俺の脳天迄を握り込んだ――
俺は、正気を失っている。でなければ、今これ程己を遠く見れるはずがない。
失禁しながら震え、声もあげられず、既に痛みを感じるほど渇いた口内。含み笑い。呻き。喘ぎ。嘲笑。哀しみ。懇願。嗚咽。それらが一斉に俺へと襲い掛かった。それに混じり、腐りかけた蓋が無情に軋み、木っ端がぱらぱらと降る中――釣瓶が誰かの手で引き上げられる。
――その瞬間、俺は……
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