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「貴史?」
落下するような感覚に、不意に目が覚める。訝しげに首を傾げた女が俺の顔を覗き込んでいた。ベッドサイドの黄色い灯りが、ベージュにまとめられた室内を淡く照らしている。
自分の、家の寝室だった。
まるで錆び付いた機械のように凝り固まっていた体から、一気に力が抜けた。
酷く汗をかいている。夢だとしても、随分生々しい。
「大丈夫?」
「ああ、久し振りに悪夢を見たよ。疲れてるらしい」
「そう、あまり無理しないでね」
「ああ」
妻の顔が心配そうに微笑んだ。
と。
顔をあげた妻がびくりと肩を震わせた。
「どうした?」
妻の目はベランダへと向いていた。先程気付けなかったが、妻の顔も随分血の気がない。妻とは別々の寝室にしている。立ち去ろうとしていた妻の異変に問い掛けた声は、返る言葉のないままさ迷っていた。
「何か」
断言するが、俺は、志帆という女を知らない。
あの場所も、知らない。
ここで急に錯乱した妻が叫んだ名前がたまたまその名前に似ていたにしても、次の日に訪れた建物で語られた事実も、俺は知らなかった。
幸せそうに妻と並ぶ志帆という女の写真に、俺は首を横に振るしかなかった。
あのベランダ越しに覗いていた女を、俺は見てなどいないのだから。
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