旅立ちの日

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 ちなみに、彼女がどうしても好きになれない仕事は、家畜の餌やりだった。エルドラーンは自分より小さな者に大しては、とことん馬鹿にする性癖があるのだ。  それに相まって、過去のいざこざが、この巨大な馬に対するコンプレックスを作り上げてしまっていた。あの時の激痛と怒りと恐怖は、エミッタにとって今でも忘れられないトラウマだ。  一人と一頭の関係は、今では修復不可能である。 「手伝おうか?」  スープが煮立ったのを見て、ルースが自分の娘に声を掛ける。低く太い声に、部屋の空気が震えた気さえする。恐ろし気なその声も、娘のエミッタには慣れたもの。  実際、その響きは肉親への愛情に溢れている。 「ううん、大丈夫よ。横にずらすだけだから」  父親に言葉を返しながら、エミッタは自分用の踏み台を、足で器用に場所を移した。そこで、ふと小さな物音に気付いて動きを止める。  何かが窓にぶつかっているようだ。 「お父さん、雨かな? そんな天気には見えなかったけど……」 「いや、虫か何かだろう」  それでも何か気になるのか、ルースはゆっくりと立ち上がり、窓に近付いてゆく。エミッタはいつも思うのだが、あんな大きな体で、ああも静かに動ける仕組みが分からない。  父親の動きにつられて、エミッタも踏み台を降りて、窓越しに外を覗き込むようにテーブルから身を乗り出す。その目に一瞬、淡く光る燐光のようなモノを見た気がして、少女は思わずハッと息を呑んだ。  だが、それを父親に知らせる前に窓は開かれていた。小さな侵入者の手によって。
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