来る夏

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結局シ水関での孫堅の手柄は、袁術の兵糧の不手際でうやむやになった。 たった二百の劉備が孫堅の手柄をそっくり攫っていった、という感じである。 その劉備も袁紹の下に付くことを拒んだし、褒美すら嫌った。 そういうところが、袁紹は好きではない。 弱者は強者に阿るものだ。 劉備は袁紹からすれば、粒にすぎない。 捻り潰すことも容易い。 皇族のひとりとはいえ、田舎の農民だった男だ。 中山靖王劉勝は、子を多く残したことで有名だった。 劉勝の末裔だからということで、自慢になるものではない。 生意気だ、と思う気持ちのほうが強かった。 孫堅は毎日のように実戦さながらの苛烈な調練を行っているようだ。 身震いする躰を、必死におさえる。 ほかに戦功を望んでいる者は多くいるし、その者を前面に出すと書簡で約束している。 これ以上孫堅に戦をやらせるつもりは、なかった。 あの兵を相手に誰が勝てるのだ、と思った。 自分が外に出ることを嫌い始めたのは、孫堅の調練を見てからだった。 死の調練を見た後では、自分の兵のやっていることが遊びのように思えた。 怠けている、とさえ思えるのだ。 顔良に鞭ち殺させようとしたが、宥(ナダ)められて、殺すことはしなかった。 そういう調練をするには、兵の魂(ココロ)が弱すぎるのだ。 表情からも、それがよくわかる。 袁紹は、顔良に軍事を託して、奥に篭るようになった。 孫堅が死を抱き込んだのか。 袁術の不手際が、孫堅に死を植え付けたのかもしれない。 祖茂という男が、撤退の際に孫堅の身代わりとなって死んだという。 戦は野蛮なのだ。 それでも、あれだけの兵を従えてみたい、と思う気持ちが捨てきれない。 袁家の名声はそういう野蛮さを求めていなかった。 だから、もうそれ以上調練に文句をつけることはない。 孫堅の死の調練も、見なかったことにする。 求めたところで、応えられる兵ではないのだ。
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