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「傷口が開きやすくなるから、縫わずにテーピングで止めておくぞ」
大きな手でハサミを起用に動かしながら会長は言った。
「今日は顔は拭くぐらいで、洗わずにおけよ」
健志は控え室のパイプに浅く腰掛けながら、力なく頷いた。
会長は砂時計のような形に小さく切られたテーピングを、左目のまぶたにできた、横2センチぐらいの傷口に2つ貼ってくれた。
負けた後の控え室では、重い空気が漂い、スタッフもたんたんと帰り支度をする中、次の試合を控えた別のジムの選手が、ウォームアップで繰り返すミット打ちの乾いた音だけが鳴り響いていた。
負けた陣営の沈黙と勝負前のボクサーの緊張感が同居する、これがボクシングの興行における選手控え室だ。
健志はライト級のプロボクサーであり、今日はデビューしてから6戦目の試合に臨んでいた。
そして今は試合後、傷を負った姿で控え室に戻ってきていた。
勝てなかったのだ。
正確には4ラウンドにダウンを奪われた後、強引に打ち合いに巻き込み、若干の挽回をしたものの、追い上げ及ばずに判定は引き分けを告げた。
だから公式記録では負けたことにはならない。
しかしボクサーにとって、引き分けは、負けとたいした違いはなかった。
引き分けて喜ぶ選手はいない。
観客はリングの上に、二人の敗者がいるように見えただろう。
ボクサーは試合前にも、あらゆる勝負を越えなければならない。
早朝、まだまだ眠い中むりやり身体をおこして、毎日走るロードワークに
始まり、夕方からは2時間以上に及ぶジムでの練習をこなす。
試合があってもなくても、ボクサーは毎日これをこなし、試合が決まれば、減量がここに加わる。
自分自身もこの試合に向けて普段は68キロある体重を1ヶ月で61.235キロ以下に落とさなければならなかった。
大学生3年生である自分は、日々の疲労も授業中の居眠りでごまかすことができるが、社会人は仕事やバイトを掛け持ちしながらボクシングを続けている人がほとんどだ。
なぜなら、そこまで苦しみ、試合に臨んでも、得られる報酬は10位まである日本ランキングに入っているボクサーでもなければ、ファイトマネーはたかが数万円だからだ。
みんな何かを削りながら、ボクシングという勝負に挑み続けている。
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