鉄棺

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 うるさい、うるさい、うるさい。ここはエレベーターの中だ。今に目の前の壁にぶつかる筈なのだ。ありえない。こんなことはあり得ない。荒くなった呼吸のせいでからからに乾いたのどから、自分のものとも思えない奇妙なうめき声が溢れた。力任せに壁を叩き半ば叩きつけるようにして足を前に出す。ぶつかれ、壁にぶつかれ。振りまわす左手が何度も空を切るたびに、足元で妄想がげらげらと嗤う。そら見ろ。目の前には何もない。お前の期待している壁なんぞという物は、最初からこの空間には存在しないのさ。ああうるさい、うるさい。なぜたどり着けない?なぜ壁に触れられない?私はどこにいるのだ。どこに向かっているのだ。私が取り残された鉄の箱は狭いはずだ。私はその閉塞感を恐れているはずだ。なのにどこまでも広がっているかのような暗闇が私を惑わせる。なぜ閉ざされた暗闇の中で無限の恐怖を感じねばならない!  そうだ、そうだ。これは幻覚だ。ありもしない妄想が私を恐慌に陥れ、そのせいでありえない恐怖に慄いているだけなのだ。電気が復旧し、このエレベーターが動き始めれば、その瞬間にこの空間は何の変哲もないただの小部屋になるのだ。足元で嗤う赤い舌の化け物も、溢れた光に追いやられて私の傍にいられなくなる。あと少し、あと少しだ。さあ壁に触れられる。これで、この一歩で私は壁に触れられる!それを信じてさえいれば。その様を思い描いてさえいれば!  無理やりに己を鼓舞して踏み出した一歩は、しかし、なぜか衝撃と共に空を蹴った。小さく声をあげて手を離した瞬間、縦揺れの地震が暗闇ごしに襲い掛かる。数回に分けて揺れた暗闇の中でバランスを崩した私は、突然の事に体勢を立て直す暇さえ与えられず、無様に床へ這いつくばった。黒い床に頬が触れて、その存在感に安堵したのもつかの間、突如身体を襲ったふわりとした感覚に、私を支えていた床の存在感さえも一瞬で消失する。直後轟音とともに真上から降ってきた衝撃をまともに受け、一旦失ったはずの床へ押し潰されながら、私はほんの一瞬だけ、己が身に何が起こったのか理解したような気がした。
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