春

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 あまりにいとおしい、彼女の無防備さに、僕は彼女をぎゅっと抱きしめた。首からはコロンの香りがした。長い髪が僕の耳をくすぐる。落ち着いた茶色の髪は、街頭に照らされてきらきらとしていた。  道端で人を抱きしめるのは人生初で最後だな、と確信した。僕はゆっくりと彼女から身体を離すと、彼女の両肩を掴んだ。 「ねえ、僕と結婚してくれない?」 そう言い終えた時に僕が見た、彼女の反応ときたら。目を大きく見開いたところへ、たっぷりの涙が溜まって、ゆっくりと零れ落ちた。それからは子どものように泣きじゃくっていた。僕までまたつられて泣きたくなった。  嗚咽の間で何かを言おうとしているのが聴こえた。けれど上手く聴きとれなかった。僕はきちんと正確に彼女の言葉を聴きたかったので、落ち着いてからでいいよ、と言った。  彼女は遠慮なく泣きだした。最初のうちは顔に手を当てていたが、鞄の中からハンカチを探し当てて、それをまぶたに当てた。人通りのほとんどない道でよかった。そうでなければ、僕は女の子を泣かせている悪い男のように見えただろう。  しばらくすると、治まったようだ。当てていたハンカチを下にずらして、目だけが見えるようにした。もう落ち着いた、大丈夫、の合図だろう。 「ごめんね、言うのが遅くなって。それに、こんなに急でごめん」 それだけ言うと、僕は彼女の言葉を待った。 「本当よ、遅すぎるわ、まったく」 彼女は悪態をついたので、僕は苦笑した。そして僕のプロポーズに対する、彼女の返事を待った。彼女は少し困った顔をしてから手を下ろして、周りに人がいないことを確認し、僕をまっすぐ見て、笑顔でこう言った。 「私でよければ、喜んで」 彼女の照れが混じったような笑顔を見て、ますます嬉しくなった。またぎゅうっと強く抱きしめた。今度はお腹の赤ちゃんにまで、ぬくもりが伝わるように。 春はもうそこまで来ているな、と思った。   fin.
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