第六章『立波草』

28/29
前へ
/105ページ
次へ
「牡丹が帰ってきましたよ」 それは、とても悲哀に満ちた声だけれど、明らかに近藤のもの。 けれど返事は無い。彼は一体誰に? 牡丹は許しも得ず、黙って襖を滑らせた。 …そこに見えたのは。 近藤しか居ない部屋に、二つの膳。 「………影膳……」 呟く牡丹。それに困ったように、微笑する近藤。 そう。近藤と対に在るのは…死者への膳。その相手はきっと。 「…芹沢さん…」 「そうだよ。俺は…あの日から毎日、こうやって語らってるんだ…」 聞こえない声。 見えない姿。 …分かっていても。 自らの意思で、亡くしてしまった魂を、偲ぶのではなく。毎夜共に過ごす。…過去の虚ろな夢を見る。 牡丹は少し窶れてしまったような近藤に、少し前の自分を…混沌の闇を見ているような。そんな姿を重ね見て、思わず近藤に駆け寄り自分より大きな背中を抱き締めた。 「…大丈夫だよ。何も…何も心配は要らないんだ。」 近藤は牡丹の温かさに、優しく目を細めると、ゆっくりと抱き締めたままの牡丹からすり抜ける。 「面をするのは、辞めたのかい?」 近藤が優しく、煌めく牡丹の頬を撫でる。それはまるで…父のように優しく、温かく。壊れないように。 「…はい。忌むべきものだ。と、思っていても、今はそれすら誇りに思っています。」 巻き込まれ、不幸にしてしまっているのかもしれないけれど。けれど、そこには命を懸けてくれた肉親、これから懸けてくれる人間が居るから。 「それを誇りに思わずには居られません。」 言う牡丹の瞳は、夜更けなのに丸い月より輝き紅い。まるで覚悟の塊か。 近藤は「ふふ」笑みを漏らし、 「芹沢殿の娘子だけある」 似ても似つかない牡丹に、けれどその気概に面影を見る。 「…‘何が正しくて、何が過ちか。後世にならなければ、分からない’」 芹沢との会話が、四六時中頭の中で反芻される。 分からないのに、ただ闇雲に前へ進むのか。己の信じる志道の為に、この手を赤く染めるのか。 …それは。自己であって、皆では無いのではないか。 「その魂に、覚悟を背負う覚悟は在るか。」 牡丹は揺れるような大きく漆黒の、近藤の瞳に問うた。 「此処に集う者らに、己の真実を…この‘新撰組’を率いて与える覚悟は在るか。」
/105ページ

最初のコメントを投稿しよう!

376人が本棚に入れています
本棚に追加