第六章『立波草』

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あの夜、「くれてやれ」芹沢は言った。 立ち止まる事は許されない。 立ち止まる気も、更々無い。 「近藤さん、私は帰ってきた。帰ってきて、今、この時の近藤さんを見て、帰ってきた事は間違いでは無かったと思った。」 皆、大小関係無く何かを背負って生きている。 「守りたいものがある」そう言って、生きていける人間。 自分の望んだ人間(ひと)の形。 「厳しい法度に、苦しむ者も少なくない。けれど、曲げられないものの為に、皆近藤さんに集っている。…私はそう思っているから、帰ってきて良かった」 牡丹の言葉に、近藤は何時振りかに笑窪を作った。 「君はまるで芹沢殿だね。」 貫き通す己の信念を此処で共にし、先導する。 犠牲の代償は、血の海では足りないかもしれない。けれど。 心に在る光に、抗えない。 渇望して止まない。 「太陽を、この手に。」 終わりがあるから、始まりがある。逆もまた然り。 ならば芹沢の死を、終わりにはしない。始まりにする。‘死’を‘志’に塗り替えて、此処から全てが始まる。 「なら私は雲一つ無い空になる。」 牡丹の言葉に、近藤は目を見開いた。 「そんな事はしなくて良いんだよ?」 「私は守られたくて、帰ってきたんじゃない」 「だが…女子に…ましてや芹沢殿の娘子に…「女だから、戦えない理由には、為らない。」 牡丹が近藤を遮る。 女が非力なのでは無い。非力なのは、そう悲嘆する人間の心。 「けれど…歳に聞いてる。その姿に不審を抱いている隊士も、少なくない…」 冷たい視線。 好奇に晒される。 蔑まれ、見下される。 分かっている。一日で、十分に思い知った。強固な精神で出来て居ないからこそ、耐えられなくなって退席した。…けれど。 「私は強くない。けれど、弱くはない。誰にも止められない心が在る。」 だから… 「だから、私は強い!」 胸を張る牡丹に、近藤は呆気に取られた。 「それに。近藤さんに集う兵者に、私は私の‘人間’を見て欲しい。近藤さんを信じて集う人達となら、心を通わせる事も不可能じゃない。」 そう、信じたい。 そう、信じてる。 「近藤さん。」 牡丹は影膳の盃を手に、酌を促す。 それに応じる近藤は、胸に芹沢の確固たる信念を牡丹と共にし、静かに酌み交わした。
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