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「はい! 私が行きます!」
好きな人の名前というのは、離れていても、聞き逃さないものだ。
その日、私は朝方まで読みふけっていた推理小説のせいで、意識も足元もグラグラの状態で出社したにも関わらず、直線距離10メートル離れた上司の言葉を聞き逃さなかった。
上司の吉田さんが、驚いたような顔を私に向けた。
「なんだ聞いていたのか」
「もちろんです!」
突然オフィス中に響いた声。まわりで仕事をしていた人達の視線が集まるのも気にしないで、吉田さんの元に駆け寄った。
「先輩が行けないなら、私が行きます」
「でもな……お前、まだ面識もないだろ。初対面の奴を行かせて、失礼があってもな……」
吉田さんは頭を傾げて、うなじに手をあてる。不安な気持ちをあらわにした。
「電話やメールでならやり取りしたこともありますし、まったくの初対面ってわけではありません」
「そうかといって……」
「他に行ける人がいない以上、待たせたり、キャンセルするほうが失礼でしょ?
私が行きます。いえ、行かせて下さい!」
この台詞が決め手になったのか、吉田さんは、渋々と頷いた。
「分かったよ。お前に任せるしかなさそうだ。内容は知っているんだろうな」
「はい!」
「だったら早く行け」
あれだけ渋っていた吉田さんの顔が、一気に上司らしい厳しさを放った。
「はい!」
私は自分のデスクに急いで戻ると、荷物をまとめてバッグに詰め込み、オフィスを出た。
「そうだ。先にメールで知らせておこう」
バッグから携帯電話を取り出して、アドレス帳から目的の名前を選ぶ。
「……見つけた」
モニターに現れたのは、これから会いに行く相手の名前。その名前を見た瞬間、私の頬は、自然に緩んだ。
--柏木想一郎。
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