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柏木さんに迷惑をかけてしまった。
事前に地図を確認しておかなかったことが、悔やまれる。申し訳ない気持ちで一杯になった。
それでも、あと10分で、柏木さんに会えると思うと、気持ちは高揚した。
事務所の金庫で保管されている、重要個人データファイル。その中に収められていた柏木想一郎さん。私は柏木さんを、ファイルに貼られた証明写真でしか見たことがなかった。
一体どんな人なのだろう。期待と不安が入り混じる。
電話で話す印象は、優しそうな--実際こうして、わざわざ迎えに来てくれるわけだから、優しいのは十分伝わったが。素敵な大人の男性というイメージが浮かんでくる。
バックミラーに写った自分の顔をチェックした。
髪は変ではないか?
寝癖はついてないか?
口紅は濃すぎないか?
ファンデーションは大丈夫か?
出勤する時には、1ミリも気にならなかった心配が、次々と浮かんできた。
本当は分かっている。
柏木さんから見たら、私はただの代理人で、明日には、私の顔なんて忘れているハズ。
それでも、良かった。
明日になっても、私は柏木さんを覚えている。
それだけで、幸せな気持ちになれる。
コン コン
助手席側から音がして、反射的に顔を向ける。車窓から覗き込む柏木さんと目が合った。
ドアを開けて、柏木さんは申し訳なさそうにお辞儀をした。
「お待たせしました」
「いえ、そんな、私の方こそごめんなさい。もっとちゃんと確認しておけば良かったんですが……」
喋っていたら、突然、手の平を向けられた。何の合図だろう?
「それより、車に乗ってもいいですか?」
と言った目線の先には、助手席を陣取るバッグ。私はバッグを掴むと、急いで後部席に置いた。
その様子を外から見ていた柏木さんは。
「もちろん、僕がジョギングで自宅まで誘導してもいいんですが……。
その場合、この暑さですから、自宅に着く前にファミレスで休憩する必要があります。
さて、どうされますか?」
左の眉毛を器用に動かして、悪戯っぽい表情を作った。
私は、柏木さんが冗談を言ったのだと気づいたのは、たっぷり5秒が過ぎてからだった。
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